物心付くころ・五.一五事件
A small child's memory ・ May 15th Incident

     物心付くころ A small child's memory     

うっすらと記憶が残っているのは、3歳くらいからあとのことでしょうか。まずは家の中の様子、父や母や兄や姉の顔、住込みの店員たちの顔。それから近くの家々。商店街でしたから、近所もみな店屋さんです。

         
   尋常小学修身書より
From elementary school ethics note
   満州事変
Manchurian incident
 
         
向かいが魚屋さん、隣がおもちゃ屋さんと石鹸屋さん。昭和ひと桁の時代、庶民の生活は穏やか・・・と子供の眼には見えていました。

The time of Showa, people's life are quiet -- it was visible to the eye of a child. However, various things had happened in the place which a small child does not know.

しかし、幼児の知らないところで、いろんなことが起こっていました。国内では総理大臣が二人も暗殺されました。国外では、昭和6年に 満州事変 が起こって、日本軍が中国東北部を占領し、翌年、満州国 が建国されました。

満州 の問題から、日本は 国際聯盟を脱退 して孤立しました。その間に 第一次上海(しゃんはい)事変 もありました。ドイツ では ナチス が台頭して第1党となり、ヒトラー が政権を握りました。

In Japan, the two Prime Minister was assassinated. Abroad, the Manchurian Incident happened in 1931, the Japanese army occupied the China northeast part, and Manchukuo was founded next year. From the Manchuria problem, Japan left League of Nations and was isolated. In Germany, the Nazis gained power, it became the 1st party, and
Hitler came into power.

でも、こんなことは、ずっとのちになって知ったことです。

But such a thing is having become and got to know later all the time.


満州国建国  Manchukuo foundation       濱口雄幸(おさち)        犬養毅(つよし)
               暗殺された二人の首相
          Two assassinated prime ministers
  濱口雄幸(おさち)    犬養毅(つよし)
  Osachi Hamaguchi    Tsuyoshi Inukai
 27代内閣総理大臣  第29代内閣総理大臣
  立憲民政党総裁    立憲政友会総裁
   松岡洋右の国際連盟脱退演説
Matsuoka Yosuke's Palace of Nations
withdrawal speech
   

濱口首相
が、昭和5年11月14日に東京駅で銃撃され、翌年8月死去。犬養首相 は、昭和7年5月15日に、首相公邸で海軍将校らに射殺されました。世にいう 五・一五事件 です。

Prime Minister Hamaguchi was shot at Tokyo Station on November 14, 1930, and he died in next year August. Prime Minister Inukai was shot dead by naval officers in the prime minister's official residence on May 15, 1932..It is the May 15th Incident.



   聖ヨハネ幼稚園  Saint John kindergarten
    
     
 明治村に移築された聖ヨハネ教会堂
The Saint John church
reconstructed in Meiji-mura
昭和8年、私は幼稚園に入園しました。キリスト教の幼稚園です。聖ヨハネ幼稚園 といいます。

In Showa 8, I entered the kindergarten. It is a kindergarten of Christianity.
It was called the
Saint John kindergarten.

レンガ造りで、一階が幼稚園、二階が教会でした。園児のころは何も分かりませんでしたが、この教会は明治40年に建てられた、とても特徴のある建造物だったのですね。


In the brick building, the first floor was a kindergarten and the second floor was a church. Although nothing was understood as a kindergartner, this church was the very characteristic building built in 1907.

私はこの幼稚園に2年間通いました。園長さんは教会の牧師さんでした。この幼稚園で一番よく歌った歌は、聖歌528番でした。

 ソラノトリハ チイサクテモ オマモリナサール カミサーマ

この聖歌の全歌詞とメロディも、このホームページの「野菜こぼれ話 第二話」の枝ページに載せています。画像も大きくなります。

All the words and the melody of this hymn are also my of this homepage. It has put on the branch page of the homepage "second talk of vegetable titbits." A picture also becomes large.

この教会堂は、のちに愛知県の 明治村 に移築され、明治の代表的建造物 として、重要文化財 の指定を受けました。今は、昔とはまるで違う環境のなかで、余生? を送っています。

This church was behind reconstructed in Meiji-mura in Aichi Prefecture, and received specification of the important cultural property as a typical building of Meiji. Now, ancient times are the rest of their life in the environment which is different completely. It has sent.



   物乞いの人々  People who beg
    
木造のころの五条大橋
Old Gojo-Oohashi
聖ヨハネ幼稚園 は、自宅から子供の足で歩いても5〜6分のところにありました。でも途中に大きな橋があります。京都の鴨川に架かる 五条大橋 です。橋のたもとに、いつもぼろぼろの着物を着て、汚れた顔をした、物乞いの人が何人か坐って、通る人々に頭を下げていました。その前を通るのが怖かったのです。

物乞いの人の前には汚れたお椀が置いてあって、いつも銅貨が2〜3枚入っていました。

物乞いの人は、街角に坐っていることもありましたし、お彼岸などでお墓参りに行くと、参道の両側に物乞いの人がズラーと並んで坐って、声を挙げていました。

母親と墓参に行くと、母は、物乞いの人々のうちで、年とった女の人にだけ、お金をあげました。でも父は、誰にもあげようとしませんでした。「なんであげんの? 」と聞くと、父は言いました。

そりゃ、このなかには、生まれつき体が不自由で、ほんまに気の毒な人もいるとは思うが、大方は、若いときに遊んでばかりいて、仕事を怠けてて、こんなことになった人じゃ。お前も、勉強をおろそかにしたり、仕事を怠けたりすると、こんなになるぞ。ようー覚えとけ!

昔の日本には、生活保護 や 国民健康保険 や 国民年金 などの制度はありませんでした。何事も自力だけで生きていく社会でした。その代わり、庶民は、ごく一部の人以外、所得税 などの税金を納めることはなかったとのことです。消費税 はもちろんありませんでした。

There were no systems, such as public assistance, national health insurance, and national pension, in old Japan. What was the society which makes a living only by itself. Instead, people were not taxed, such as an income tax. Of course, there was no consumption tax.



     東京音頭 Tokyo Ondo

幼稚園に入った年の夏、母と一緒に、家から歩いて10分ほどの 円山公園 へ行くと、大勢の人が歌を歌いながらにぎやかに踊っていました。この歌が “東京音頭(とうきょうおんど)” でした。

     ハアー 踊り踊るなら チョイト 東京音頭 ヨイヨイ
     花の都の 花の都の 真ん中で サテ
     ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ・・・・・

                     (時雨音羽 編著 日本歌謡集 より引用)

この、”ハアー” で始まる 東京音頭 は、作詞が 西条八十、作曲は 中山晋平 です。はじめは、昭和7年に “丸の内音頭” という名でレコードを出したのですか、さっぱり売れなかったそうです。

小唄勝太郎
Katsutarou
 a famous singer
 
東京音頭 を歌った 小唄勝太郎 は新潟県出身。東京へ出て葭(よし)町(現在は人形町)の芸者となり、美声を買われて歌手デビュー。昭和7年12月に出した“島の娘”が大ヒットして、全国に 勝太郎 の名が知れ渡りました。

東京音頭 の大ヒットを期に、勝太郎 は芸者をやめて、歌手に専念することになり、”小唄勝太郎” と名のりました。

東京音頭 は今でも歌われているようです。また、プロスポーツの応援歌に使われたり、さまざまな替え歌が作られたりしているそうですね。

今から振り返ると、東京音頭 があれほどはやったのは、小唄勝太郎 の人気もさることながら、当時の世相が背景にあったと思います。なにかしら身に迫り来る不安、そんな不安感をひと時でも忘れたいと願って、当時の大人の人たちは 東京音頭 を歌い踊ったのでしょう。


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