小学校入学・修身書・一銭銅貨

Elementary school entrance
     小学校入学  Elementary school entrance

尋常小学修身書巻一より
昭和9年が終わって、昭和も二桁に入ります。二桁といっても昭和は長かったので、昭和二桁のはじめと終わりでは、世の中は天と地ほど違っている感じです。

さて、昭和10年4月、いよいよ今月から 小学一年生 です。私の通った小学校のことは、このホームページの ”野菜こぼれ話 第十七話” に書いていますので、そちらをご覧ください。

私は、幼稚園児の間に、兄や姉の一,二年生の 国語読本 や 算術(いまの算数) などの教科書を、ほとんど全部読んでいましたから、一年生の授業は何の苦もなく、予習も復習もしませんでした。宿題をサッサと片付けて、あとはほかの本を読んだり、外で遊んだりしてました。

こうして、その後17年続く”学ぶ人生” が始まったのですが、その途中にひどいどん底の時期が待っていることを、もちろん知るよしもありませんでした。



   修身書・・・てなんだ?   Text book of moral-training
   
最初のページで、画像の下に ”尋常小学修身書” と書いて、あとで気がつきました。”修身(しゅうしん)” というのは、昔の義務教育にあった教科の名前で、修身書 とは、その教科書のことです。修身 という教科は、今はありませんね。

尋常小学修身書 巻一と巻五(文部省 昭和11年版)
elementary school -- a moral-training document
The volume 1 and the volume 5
修身 は、簡単にいえば、道徳を教える教科です。私たちの時代には、教科の第一、つまり一番大切な教科とされていて、一年生から六年生までありました。

上級生になると、担任の先生に代わって、時々校長先生が教壇に立つこともありました。

修身 という言葉は、福沢諭吉の造語と聞いたことがありますが、確かではありません。

日本では、江戸時代から 儒教道徳 が教えられ、中でも指導的階級の武士たちは、儒教道徳 に基づく 武士道 を守るべきものとされてきました。

明治23年に 明治天皇 教育勅語 を発布され、これがすべての国民の守るべき道しるベとなりました。修身 の教育内容も、この 教育勅語 の内容に沿った道徳を教えるものでした。

教育勅語 については、このホームページの ”野菜こぼれ話第十三話”の枝ページに、全文と現代語訳を載せています。

修身 とは、字のとおり 身を修める道徳 を教わるものですが、大別すると次のような構成になっていたと思います。

 1. 天皇、国家に対する道徳・・・国体・忠君・愛国・義勇・国民の義務、などを教える。
 2. 両親、家族、友人、他人に対する道徳・・・孝行・報恩・寛容・礼儀・謙遜、などを教える。
 3. 個人としての道徳・・・自立心・勤勉・努力・忍耐・正直・沈着・勇気、などを教える。

我々の世代は、このような内容を教わり、教育勅語 を暗誦し、そこに示されているような人間になろうと勤めたものでした。

今は、国体(国民体育大会の略ではありません) が変わり、忠君 もなくなっていますが、そのほかの項目は、今でも、人間として、日本人として、必要なことだ、と私は思っています。

今の学校では、道徳教育はあるのでしょうか。あるのなら、何を教えているのでしょうか。

現在の 教育基本法第2条 にも、人として守るべき徳育の項目が記載してあります。でも、今の学校の先生や児童は、この条文を暗誦して実行しているのでしょうか




   京都大洪水  Kyoto Deluge  

昭和10年6月29日から30日にかけて、京都盆地一帯に 梅雨末期の集中豪雨 が降りました。夜中にとどろく雷鳴に眼が覚めて見ると、両親はすでに起き上がっていて、庭に降る猛烈な雨を心配そうに見ていました。

それでも翌朝、大雨の中を、傘を差して、いつもどおり登校しました。1時間目の授業中、ふと窓の外を見ると、運動場が広い池のようになっています。そして水かさが急に増してきました。このときになって、全校の授業が打ち切られ、全員家へ帰るように、先生から指示が出ました。廊下に出ると、もう足元は水浸しの状態です。

校門の前の道は川のように水が流れていて、校内にも流れ込んでいました。水かさは、子供の膝を越す深さ。たくさんの大人の人がいて、児童一人一人を背負って安全な場所まで運んでいました。私も、大きな体のおじさんに背負われて、安全な場所まで連れて行ってもらい、そこから家まで歩いて帰りました。

清水寺の音羽の滝 (現在)
Otowa Falls in Kiyomizu-dera
家へ帰ると、みんなが 「橋が流れた!」 と叫んで、大騒ぎしています。雨が小降りになってから、番頭さんと一緒に川を見に行くと、 ”物心付くころ” のページに写真を入れた 五条大橋 は、こちらと向こう岸の数メートルずつを残して何もなくなっていて、その中を濁流がすごい音を立てて流れていました。

小学校に流れ込んだ水は、鴨川 の濁流ではなく、学校の北100メートルを西に流れる 音羽(おとわ)の水でした。音羽川 の源は、京都の観光名所として名高い 清水寺(きよみずでら)の音羽の滝 です。

あの滝の水は東山を流れ下り、市街地に入ってからは、家々の間を通って、私の通っていた小学校の北で、鴨川の東の人工川・琵琶湖疏水 に流れ込みます。

普段は小さい流れなのに、あの日は、東山一帯に降った豪雨による大水が 音羽川 に流れ込み、疏水 の増水に行く手を阻まれて、大量に道路へ流れ出したのでした。それにしても、清水寺の 音羽の滝、今は水の量が減りましたね。私の子供のころは、もっと水量多く、勢いよく、落ちていました。



   一銭銅貨 1 sen copper coin
  
一銭銅貨  1 sen copper coin
昭和10年(1935年)、小学一年生になって、毎日お小遣いをもらうことになりました。一日2銭(せん)です。一銭銅貨(いっせんどうか) 2枚。実物は写真の半分ほどの大きさ、今の10円玉とほぼ同じくらいです。

親としては、子供に金銭感覚を持たせるためだったのでしょう。”(せん)”というお金は、今はありませんね。100銭が1円に当たります。

戦前は子供の赤痢が多かったので、食べ物の買い食いは禁止でした。貯めておいて、本を買ったり、玩具を買ったりしました。でもときどき、内緒で 大福餅 を買って食べたりしました。斜め向かいの 餅菓子屋 で、大福餅 など、ひとつ2銭で売っていました。

今の時代、近くのショッピングセンターに出店している餅菓子屋の店先を見ると、大福餅や柏餅などを、1個126円で売っています。6円は消費税でしょうから、本体は120円。・・・とすると、昭和10年に比べて物価は、なんと六千倍です。

莫大な戦費をまかなう 国債 の大量発行と、敗戦後の 悪性インフレ と、その後の政権政党の 高物価高賃金政策 が、こんな結果をもたらしたのです。現在、日本では、どの政党も、政権をとるために、安易に 国債 を発行して、バラマキ政策をやっています。こんなことを続けていると、またいずれは、さらに物価何千倍の時期が来るでしょう。

What and 6000 times are the present prices compared with 1935?  Heavy issuance of a national bond which covers the immense cost of war, the vicious inflation after defeat, and the subsequent governing party brought about such a result.



   小学生で映画館通い  Schoolchild and Movie theater visiting

私には姉が何人もいました。このうちの姉のひとりは、勉強よりも映画を見るのが大好き。女学校卒業後、家の用事を手伝っていましたが、しばらく映画を見ないと機嫌が悪くなって、母を困らせていました。といっても、年頃の娘が一人で盛り場へ行くのはよくないので、小学校へ入ったばかりの私がついて行くことになりました。

映画館が並んでいる街へは、家から歩いて10分ほどですが、戦前でも、盛り場や途中の橋の上などに不良青年たちがたむろしていて、姉が通ると、「姉ちゃん! お茶のみにいこやないか」  などと声をかけます。私は姉の手をしっかりつかんで、黙って通り過ぎます。 

昭和10年代、当時の映画は、現代劇 と 時代劇 の二本立てで、これに短いニュース映画がついていました。トーキーにはなっていましたが、もちろん全部白黒映画です。現代劇のスターは、男優が 上原謙佐野周二、女優が 高峰三枝子桑野通子高杉早苗田中絹代 たちでした。

 
   佐野周二
 shuuji sano
 桑野通子
 michiko Kuwano
高杉早苗
Sanae Takasugi
 
 (まるさんのご好意により掲載)
佐野周二 は、司会者・タレントの 関口宏氏 のお父さん、俳優の 関口知宏氏 の祖父。

また、ドラマで活躍し、歌舞伎界に入った市川中車氏(元・香川照之氏 ) は、高杉早苗 のお孫さんです。

映画好きの姉は、現代劇 のとき、スクリーンをじっと見つめていました。当時の映画では、男女が抱擁する場面やキスシーンなどはなく、せいぜい手を握り合う程度でした。

子供の私には、現代劇 はつまらないものでしたが、桑野通子 は美しい人だと思いましたね。でも、美人薄命のことばのとおり、桑野通子 はその後、31歳の若さで亡くなりました。

時代劇のチャンバラは大好きでした。坂東妻三郎嵐寛寿郎 に加えて、林長二郎(のちの長谷川一夫)・坂東好太郎高田浩吉 らが格好良かったですね。

この姉との映画館通いは、二年生のころまで続きました。その後、この姉は、行儀見習いに東京の叔母の家へ行き、一年ほどして帰ってから、縁があって結婚しました。戦争になって夫は出征しましたが、無事に復員し、子や孫に恵まれ、息子の嫁さんとも仲良く暮らしました。

若いときは、両親が将来をとても心配した姉でしたが、結果的には、姉たちのうちで一番幸せな人生を送りました。ほんとに人の運命は分からないものですね。



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