働く人生始まる
Work life starts

  新制大学の助手・・・働く人生始まる
   An assistant of a new system university・・・Work life starts

昭和27年(1952年)4月初め
、私は SK大学 に出勤して、助手 の辞令を受け、その後、庶務係長に伴われて、各講座や事務部などにあいさつ回りをしました。働く人生の始まりです。

First in April, 1952, I attended my office to SK university, in response to an assistant's written appointment, was followed on the head of the general clerk after that, and made a round of courtesy calls to each lecture, a purser department, etc. It was the beginning of life which works.

旧武道場の建物を仕切って改造した
SK大学の研究室棟(当時)
専門学校が新制大学に昇格したとはいうものの、建物は以前の専門学校の時のまま。研究室は、旧農林学校時代の武道場の建物を仕切って改造したものでした。

The laboratory building of SK university which divided and converted the building of the old martial art place (that time) Although the vocational school was promoted to the university, the building was still in the state at the time of a former vocational school. The laboratory divided and converted the building of the martial art place of its old agriculture-and-forestry school days


大学での教員の職階 は、現在では、教授・准教授・助教 となっているそうですが、それは最近のこと。戦前から数年前まで、教授・助教授・助手 というのが大学教員の職名でした。

It is these days although it is said that the job grade of the teacher in a university serves as a professor, an associate professor, and an assistant professor now. The professor, the assistant professor, and the assistant were the university teacher's official titles till several years before prewar days.


         
   カボチャ畑  Japanese pumpkin field    カボチャ品種のいろいろJapanese pumpkin kinds
(右・ニホンカボチャ 中・クリカボチャ 右・ペポカボチャ
 
         
初任給は月額7500円。今からすると、「ホントか ? 」 と言われそうな金額ですが、これが大学卒の公務員給与の標準でした。まだ、1万円札も5千円札も100円硬貨もない時代です。

A starting salary is a monthly amount of 7500 yen. Although it was the amount of money which is likely to be said "Is true? To be ?" with from now on carrying out, this was a standard of a university graduate's salaries for civil servants. It was a time when no ten thousand yen bill and 5 thousandyen bills and 100 yen coin yet.


家に食費を出し、姉に少しながら小遣いを進呈し、奨学資金の返済をすると、半分くらいが残るだけでした。

卒業直前に父が死んで、親なしになった身では、衣服を始め、身の回りの品を、自分の収入でそろえねばなりませんでした。父が死ぬ前から決まっていた兄の結婚。父の忌明けを待って自宅で挙式し、家族に兄嫁が加わりました。

卒業前に、講座のN教授から、

     「SK大学に就職したら、当分はTA助教授の研究の手伝いをするのだぞ

と言われていましたが、研究の手伝いより前に、朝早く出勤して部屋の掃除、寒い時期には石炭ストーブ焚きなども、毎日の仕事のうちでした。

TA助教授は、以前からカボチャの研究をしていました。戦時中から戦後の食糧不足の時期には、サツマイモカボチャの研究をする人が多かったのです。TA助教授もその一人でした。

クリカボチャの花  左・雄花 右・雌花
The flower of a buttercup squash
The left, male flower. The right, female flower
研究の前に、材料のカボチャを栽培しなければなりません。

カボチャは1株で2坪ほどに広がるので、いくつもの品種を栽培するには広い面積がいります。それまでは、農場に栽培の応援を頼んでいたそうですが、私が勤務したので応援が減らされました。

私は3人の専攻生と一緒に、約300坪の研究圃場(ほじょう)の、耕起(こうき)から栽培中の中耕(ちゅうこう)除草(じょそう)など、すべてを担当しました。

現代、スーパーなどで売られているカボチャは、国内産も輸入品もほとんどが “えびす” 系のクリカボチャで、日本カボチャはわずかですが、当時は、まだ日本カボチャもかなり店頭に出ていました。

カボチャ の花が咲き始めると、翌日の研究用に、前日の夕方、つぼみに袋をかけて昆虫の侵入を防ぎ、翌早朝、花をいくつも切り取って、研究室の冷蔵庫に入れる、また、翌年のタネを採るために、受粉(じゅふん) して再び袋をかける、こんな仕事が続きました。

畑仕事は天候次第。栽培期間中は日曜も祝日も休みなし。給料をもらう身になって、最初にやらされる下働きの仕事の始まりでした。

Since field labor was dependent on the weather, during the cultivation, it was absent also from neither Sunday nor a public holiday, and it attended its office. It was the beginning of the work of subordinate work which will get a salary and is done first.


   
   燕岳・槍ヶ岳に登る
    Mt.Tsubakuro and Mt.Yari gaining the summit

燕  岳Mt.Tsubakuro
昭和27年(1952年)夏、春から始めた研究室のカボチャの仕事は、8月初めでほぼ終りました。

7月半ばに、静岡の MI君 からはがきが来ました。同級生が集まって、山に登ろうという誘いです。参加者は8月9日朝、松本駅 集合という通知。私は、講座の TA助教授 に申し出て、休みをもらいました。

当日、松本駅に集まったのは6名。目指すは 槍ヶ岳。松本駅から有明で下車し、中房温泉からまず 燕岳 (つばくろだけ) に登り、北アルプス表銀座 (おもてぎんざ) と呼ばれるコースを経て、槍ヶ岳 に行くのです。

燕岳 への登山路はよく整備されていましたが、最後の登りはかなりきつく、霧も吹き上がって来ました。それだけに稜線に達したときの眺望はすばらしいものでした。正面は 槍ヶ岳。北は 立山 から南は 穗高岳乗鞍岳 まで。




燕山荘前からの北アルプスの展望
The view of the north Alps from
before the Tsubame mountain villa
現在の燕山荘
The present Tsubame
mountain villa

燕岳 に登り、その夜は 燕山荘 (えんざんそう) 泊り。

燕山荘
は、当時の山小屋では最上等の宿でした。今はさらに奇麗に大きくなっていますが、外観は昔の形をとどめています。

翌朝 燕山荘 を出発し、南へ。大天井岳 (おてんしょだけ・だいてんじょうだけ) の肩を巻いて、東鎌尾根 (ひがしかまおね) に取り付き、真正面の 槍ヶ岳 へ。

肩の小屋 に着いて荷物を下ろし、鎖、鉄ばしごを頼りに岸壁を登って、槍ヶ岳 頂上 に立ちました。





槍ヶ岳頂上に立つ
Stand on the Mt. Yarigatake summit
東鎌尾根から仰ぐ槍ヶ岳
Mt.Yarigatake at which it looks up from the east arete
360度の展望を満喫して巌峰を降り、その夜は肩の小屋で宿泊。翌朝、槍沢を下って上高地へ。ここでさらに 焼岳 に登り、その夜は 上高地 で野宿しました。

そして、つぎの朝、互いに別れを惜しみながら解散しました。4人はバスで帰りましたが、KG君と私は徳本(とくごう)を越え、島々まで歩きました。途中、国蝶 オオムラサキ が群れ舞う姿を見て感激しました。

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上高地から見る焼岳
Mt. Yake seen from Kamikochi
惜しや穂高との別れ・・徳本峠
Separation with Mt. Hodaka of
a regrettable thought fromTokumoto peak
徳本(とくごう) を共に越えた KG君 は、早くに父君を亡くしていました。

とても純真な心の持ち主でしたが、あまり笑うことがなく、やや寂しい感じのする友でした。この旅の帰路、滋賀県大津市で別れ、その後は専門の違いもあって、会う機会もありませんでした。

およそ10年後、KG君 は体調を崩して入院し、病気は治ったのですが、看病してくれたご母堂が亡くなったあと気鬱状態になり、ついに自殺しました。

また、この 槍ヶ岳登山 を共にした6人のうち、KG君 を含めて4名が、すでに世を去っています。



   テネシーワルツ・・・社交ダンス流行
    Tennessee waltz ・・・ Social dance fashion

社交ダンスSocial dance
私が就職した昭和27年(1952年)の前から、社会では 社交ダンス が流行していました。

Social dance
was in fashion in society from before 1952 when I was employed.

社交ダンス は、戦前にもありました。しかし、そのころは一般庶民のものではなく、また、風紀(ふうき・男女間の交際の節度)上の懸念から、ダンスホール の場所も規制されていました。

京都市の場合は、街中から離れた東山に ダンスホール が作られ、入場には、かなりきびしい服装の規制までありました。

戦後は規制がなくなり、昭和25年(1950年)ごろから、街のあちこちに ダンスホール ができて、だれでも自由に 社交ダンス を楽しめるようになりました。

このころの ダンスホール には、男一人で行ってチケットを買い、専属の女性ダンサーにチケットを渡して何曲か踊るというところもありましたが、男女同伴で行き、入場料だけ払って、好きなだけ ダンス を楽しむところが多かった、と記憶しています。

お酒を飲んだりせず、美しい曲を聴きながら、男女二人で手を取り合って、ステップを踏む楽しみでした。

私が勤めて間もなく、若い女性事務職員が、別段の用事もないのにやって来て、映画を見に行こうとか、ダンス に行こうとか、誘ってくれるのがいました。

当時は私も若い身空ですから、ダンス ができたら楽しいだろうなと思い、仕事帰りに勤め先の近くの 社交ダンス 教習所へ通って、クイックステップブルースワルツタンゴ と、ひと通り習いました。 そして、ダンス を誘った事務部の若い女性と、ホールでステップを踏むのを楽しみました。彼女は身が軽く、ダンス がとても上手でした。

Since I was also young, when the dance was made, I thought that it was probably pleasant, and it passed to the
social dance school near the office on the way home from work, and learned the quickstep, blues, waltz ,and tango briefly those days. And I enjoyed stepping in a hall with a young woman of the purser department which invited the dance. Her body was light and she was very good at the dance.

パティ・ページ
Patty Paige
江利チエミ
chiemi eri
そのころ、大流行していた曲が テネシーワルツ です。この歌は、戦後アメリカで作られた歌曲ですが、1950年 パティ・ページ (Patti Page) が歌って、世界的なミリオンセラーとなっていました。日本でも、昭和27年(1952年)に訳詞を付けて、当時14歳の 江利チエミ が歌い、大ヒットしました。

The music which was much in fashion at the time is the
Tennessee waltz. This song was the song made in the United States after the war, and Patty Paige sang it in 1950, and it had become a global million seller. Translated words were attached in 1952, and the Chiemi Eri of that time 14 years old sang and made a smashing success even in Japan.
                      
歌詞の内容は、”恋人に友人を紹介したら テネシーワルツ を踊っている間に恋人を盗られてしまった” という失恋の曲です。
歌詞は掲載できないようですので、 YouTube でお聴きください。パティ・ページ の歌 も、江利チエミ の歌 も、聴くことができます。
  
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テネシーワルツ を歌った 江利チエミ は、その後も歌手・女優として活躍し、俳優・高倉健 と結婚して幸せでしたが、身内の者の不祥事で、愛し合いながらも離婚。そして、45歳の若さで亡くなりました。高倉健 は、その後ずっと独身を通しています。

パティ・ページ は、80歳を過ぎても元気にステージに立っていましたが、2013年1月1日に亡くなりました。享年85歳。

Patty Paige
Even if it turned 80 years old, it was standing on the stage vigorously, but it passed away on January 1, 2013.
85 years old of age at death.



     パチンコ・・・全国に広がる
    Pachinko・・・It spreads all over the country

初期のパチンコ台
An early pachinko stand
現在、パチンコ は全国いたるところに広がっています。なかには、仕事もせずに一日中 パチンコ店 に入り浸って、まるで パチンコ依存症 のようになっている人もいる、と聞いています。

Pachinko has spread in national everywhere now. I have heard that a pachinko parlor is frequented all day long, without also working, and the person who has become just like pachinko dependence is also in inside.

パチンコ は元々子供の遊びでした。戦前、私の子供のころ、夜店や縁日で、テントの下に パチンコ台 を7〜8台並べている露店がありました。

Pachinko was a child's play from the first. As my child of prewar days, the stall which is putting 7 or 8 pachinko stands in order was under the tent in the night stall or the fair.

最近のパチンコ店内
Inside of the latest pachinko parlor
子供は2銭で メタル を10個ほど買い、メタル を穴へ入れると、玉が出てきて、ハンドルでそれを打つのです。幸いに玉が “当たり” のところへ入ると、メタル がいくつか出てくる仕掛けで、景品はなく、メタル がなくなればおしまいでした。

Children received about ten metals for 2 sen. When the metal was put in to the hole, the ball came out and the handle struck it. When it went into the place whose ball is fortunately "hit", it was a mechanism in which some metals came out. When there was no premium and the metal was lost, it was in the end.


昭和25年(1950年)10月、まだ学生のころ、愛知県の 清洲 で 園芸学会 があって出向いたとき、 “名古屋に大人向けの パチンコ店 ができている” という話を聞きました。それが、1年あまりのうちに全国に広まり、京都市内の繁華街にもいくつか店ができました。

In October, 1950, I have heard "the adult-oriented pachinko parlor is made in Nagoya" still when I took part in the meeting of Japanese Society for Horticultural Science.. The pachinko parlor spread all over the country within a little more than one year. Some stores were made also in the shopping quarter in Kyoto.

昭和27年(1952年)から28年にかけて、パチンコ店 は日本中に次々に増え、60年経った現代でも パチンコ店 は繁盛して、パチンコ台 も改良され続けているようです。今、私が住んでいる人口3万に足りない田舎町でも、パチンコ店 が幾つもあります。

Pachinko parlors increase in number one after another all over Japan from 1952 to 1953, and the pachinko parlor is the present age which has passed for 60 years prosperous. A pachinko stand also seems that it is continuing be improved. The population 30,000 in which I live now has many pachinko parlors even in an insufficient country town.

私は、若い時から パチンコ はしません。 “空気の悪い店内に長時間居るのは、健康と時間とお金のロスになるだけだ” と思うからです。なぜあんなことが楽しいのでしょうか?向き合うなら、パチンコ台 よりも パソコン画面 の方がずっと面白く、有益だと思いますが・・・・・。

I do not play
pachinko from the time when I am young. It is because it considers "it only becomes a loss of health, time, and money that it is in the bad inside of a shop of air for a long time".Why is such a thing pleasant? If you faces each other, I think that the personal computer screen is much more interesting and useful than a pachinko stand.


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