北海道・立山登山
Hokkaido ・ Tateyama climbing

   始めての北海道
     The first travel to Hokkaido

昭和28年(1953年)8月、園芸学会 が 北海道大学 で開催されました。私はTA助教授に願い出て、少し長い夏休みをもらいました。


札幌時計台
Sapporo Clock Tower
月寒種畜牧場
Tsukisappu National Livestock
Breeding Stations
初めての 北海道旅行 なので、できるだけ広く見て歩きたいと思ったのです。大学から出る旅費はごくわずかで、あとは何とか工面しての貧乏旅行です。

行きは北陸線回りの夜行普通列車。連絡船で函館に渡り、札幌までまた夜行。

あらかじめ頼んでおいた 月寒(つきさっぷ) の 農林省種畜牧場 の寮に入っている大学同級生・KK君の部屋に泊めてもらって、そこから札幌へ通いました。

学会が終ってから大雪山に登るつもりで、札幌駅のホームに行くと先輩のSN氏に会いました。

SNさんも 「大雪山に登るのだ」 といいます。お伴を許してもらって、その晩は層雲峡で一泊。

ケーブルは途中までで、あとはヒグマを警戒しながら歩いて登り、この日は、黒岳 の山小屋泊まり。次ぎの日、大雪山 山上を、左に高根が原のお花畑を眺め、右下に有毒温泉を見下ろして、主峰・旭岳 に登頂。旭岳 の噴火口の横を下山して、天人峡の宿に着きました。

大雪山頂・御鉢平
Ohachidaira of the top area in the Mt. Daisetsu
大雪山の主峰・旭岳
Mt.Asahidake of the dominant peak in the Mt. Daisetsu
翌朝、羽衣の滝 を見てから、バスで旭川へ出て、ここでSN先輩と別れ、私は 屈斜路湖(くっしゃろこ) へ向かいました。

美幌駅からバスで美幌峠を越え、屈斜路湖摩周湖阿寒湖 と巡りました。摩周湖 ではちょうど朝霧が晴れていく時間帯で、幻想的な湖の姿を見ることができました。

屈斜路湖  Kussharo lake
摩周湖  Lake Mashu
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阿寒湖  Akan lake
阿寒湖 からバスで北見相生(きたみあいおい)へ。国鉄で網走の二つ手前の駅で降り、網走湖畔 を歩いて、その夜は網走駅前旅館泊まり。

根室拓殖鉄道(トロッコ車)
Nemuro colonization railroad
納沙布岬灯台
Nosappu cape lighthouse
翌朝、釧網(せんもう)本線に乗り、標茶(しべちゃ)で乗換え、当時存在した国鉄ローカル線で、中標津(なかしべつ)、厚岸(あっけし)経由で、根室(ねむろ)着。

さらに翌日、トロッコ車で 歯舞(はぼまい) へ。あとは根室半島 を歩いて納沙布(のさっぷ)着。

岬の突端に立つと、ソ連に占領されている 水晶島(すいしょうとう)・勇留島(ゆりとう)・秋勇留島(あきゆりとう) などの 歯舞諸島 が見えます。灯台の望遠鏡をのぞくと、水晶島 のソ連兵の動きも見られました。

When it stood on the tip of a cape, the Habomai islets, such as Suishotou, Yuritou, Akiyuritou, etc. occupied by the Soviet Union, could be seen. By the telescope of the lighthouse ,the motion of the Soviet Union soldiers of Suishotou was also seen.


洞爺湖  Lake Toya
昭和新山  Showa-Shinzan
尾札部海岸の昆布干し場
Sea tangle drying ground of the Osatsube seashore
納沙布岬 から歯舞村へ引き返したところで日が暮れ、旅館があるというので宿泊しました。日本最東端の宿です。8畳間に一人だけ。ほかに宿泊客はなかったようです。8月というのに火鉢が出ました。宿賃は2食付で450円。

根室 から根室本線に乗って 月寒 に戻り、KK君や場員の方々に礼を述べ、洞爺湖(とうやこ) に向かいました。

洞爺湖畔 を歩いて、立派な建物の近くに来たとき、品の良い老人に呼び止められました。聞けばこの別荘の主人とのこと。

どこから来たのか、北海道をどれだけ回ったのか、いくら金を持ってきたか

 などなど聴かれました。

京都からの汽車賃も含めて、1万8千円でこれだけ回ったと言うと、

そんな少ない所持金でよくそれだけ旅行できたな。ろくなものも食べてないのだろう。昼はここで食べていけ

とおっしゃるのです。

お言葉に甘えて、ご馳走をいただき、礼を述べて別れました。もらった名刺を見ると、札幌の大きな商会の会長さんでした。

北海道を離れる前に、もう一箇所見たいところがありました。函館の東、亀田半島北東海岸の 昆布漁 です。

鹿部(しかべ)  に一泊して、翌日、川汲(かっくみ)、尾札部(おさつべ)海岸 の昆布干し場を見て歩きました。昆布の加工販売は、私の家の職業だったからです。

帰りは、青函連絡船、東北本線、東海道本線を乗り継いで帰京しました。京都に着いたときは、9月になっていました。

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旅行中泊めてもらった 月寒 の級友・KK君と、洞爺湖畔の別荘で食事をいただいたご老人には、帰京後礼状を出しました。

このときの 北海道貧乏旅行 は、いささか無茶な行動でしたが、若かったからできたこと、と思っています。つぎに私が北海道へ行くのは、このときから20年後のことになります。

Although the Hokkaido poor travel at this time was rather unreasonable action, I think that it was were able to do since I was young. It becomes a thing 20 years after this time that I next go to Hokkaido.




  立山に登る・・・さらに鹿島槍へ
     Mt.Tateyama climbing ・・・.To furthermore the Mt. Kashimayari

北海道旅行の翌年、昭和29年(1954年)8月、例年の夏の仕事を終えてから、北アルプス へ向かいました。今までは同行者がいましたが、このときは単独行と決めました。

立山・弥陀ヶ原
Midagahara in Tateyama
地獄谷から見る立山
Mt.Tateyama seen from Jigokudani
目標は 立山。そして信州側へ入って、後立山(うしろたてやま)連山 をできるだけ登ってみようと思いました。

富山から登山口まで電車。まだケーブルは出来てなくて、美女平(びじょだいら) まで 称名(しょうみょう)の滝 を垣間見ながら、つづら折の坂を登りました。続く広い 弥陀(みだ)ヶ原 を通って、地獄谷 近くの山小屋で1泊。

翌朝、雷鳥沢 別山 に登り、剣岳 の威容を後ろに、高山に咲く花を愛でながら、立山頂上 を目指しました。立山大汝(おおなんじ)からの眺望を楽しんだ後、この日は早めに一の越の小屋泊り。

立山・別山から見る剣岳
Mt. Tsurugi seen from Betsuzan in Tateyama
立山頂上・大汝峰
The Tateyama summit
タテヤマリンドウTateyamarindou チシマギキョウ Hairry flower
次の日、コースを南へとって、霧の中を尾根伝いに、浄土山龍王岳鬼岳獅子岳 を経て、ザラ峠 に降りて霧が晴れました。

ザラ峠 は、天正12年(1584年)の昔、戦国の武将・佐々成政(さっさ なりまさ) が、徳川家康のいる浜松に向かうために、厳冬期のこの峠を越えたことで有名です。

ザラ峠 の南には、鷲岳 の西に美しい高原・五色ヶ原 が広がっていました。私はここで一休みして昼食をとり、昔々、佐々成政 も通った 黒部川 への下り坂を、走るように降りてゆきました。

鷲岳と五色が原
Mt. Washi and Goshikigahara plateau
平の小屋 Taira hut 黒部川の川原の温泉
Hot spring of the dry
river bed of the Kurobe river
黒部川に降りて、今夜泊まる(たいら)の小屋 を見てびっくり。当時の山小屋はどこも粗末な建物でしたが、ここは、今にも壊れそうなボロ小屋。

風呂があるというので、どこかと尋ねると、黒部川 の川原だといいます。小屋から100mほど離れた川原に湯が沸いていて、自分でスコップを使って掘って、浸かるのです。熱ければ 黒部川 の水を入れます。

そんなボロい 平の小屋 でも、夕食は、獲れたての岩魚(いわな)の焼魚が何匹も付く豪華版でした。

針ノ木岳 Mt. Harinoki 爺ヶ岳南峰 South peak of Mt.jii
 背景は立山 Background is Mt.Tateyama
(写真提供 TAIHEIYO Racing)
コマクサ Komakusa
クルマユリ Kuruma lily
     
鹿嶋槍ヶ岳 Mt Kashimayari (北アルプス専科より借用)
次ぎの朝、黒部川 の吊り橋を渡り、上り坂を  針ノ木峠 へ。

針ノ木峠
は東西両側ともすごい急斜面。昔、佐々成政はほんとにここを越えたのかなと思いながら、針ノ木岳 に登り、針ノ木小屋 に宿泊。

次ぎの日は、後立山(うしろたてやま) の尾根筋を北へ、スバリ岳赤沢岳岩小屋沢岳鳴沢岳爺ヶ岳 と縦走。冷沢(つめたざわ)小屋 で泊り。爺ヶ岳 の近くで コマクサ の群落が満開でした。

そして、最終日。最期の目標、鹿嶋槍ヶ岳 の頂上に立ちました。朝は快晴で、北アルプスはほぼ全山が見渡せ、北方、白馬岳 のかなたには日本海、佐渡ヶ島 も見えました。


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マツムシソウ Gypsy rose オニアザミ Demon thistle
この山旅(やまたび)で私が渡った 黒部川 のあたりは、今では黒部湖の底になっています。平の小屋 は近くに移築されたと聞きましたが、今はどうなっているでしょうか。

このときの山旅は、単独行でした。一人だけの登山は危険という人もありますが、それだけに注意を払い、天候や危険度の判断力を養うことができます。余計な話に妨げられることなく、思索に更けることもできます。

The mountain trip this time was alone. Although there is also a person of being dangerous so, the mountain climbing of only one person can pay attention and can support the judgment of the weather or danger. It can also advance in meditation, without being barred by the excessive talk.

今は競技スポーツが大流行です。私は、勝ち負けを争う競技スポーツは好きではありません。競技スポーツだけでなく、碁や将棋などの勝負ごとも好みません。勝負は、本業の仕事のうえで、否応なくやらねばならぬことです。

Competitive sports are great fashion now. I do not like the competitive sports with which I fight for victory and defeat. Not only competitive sports but games, such as Go and Shogi, are not liked..After a main occupation's working, you have to do a match compulsorily they are things.

登山 は勝ち負けのないスポーツです。対戦相手があるとすれば、それは自分自身です。自分の体力、危険に対する判断力などを養いながら、自然の大きさ、美しさに接し、目標への達成感が味わえます。

Mountain climbing is a sport without victory and defeat. It is itself supposing there is a waging-war partner. The sense of accomplishment to a target can be experienced in contact with a natural size and beauty, supporting the judgment over its physical strength and danger, etc.


この年の 立山登山 の体験から、これからの山旅も、私はなるべく単独行にしようと思いました。



     日本福音ルーテル恩寵教会
    Japanese Gospel Lutheran Onchou church

昭和27年(1952年)
に社会人となって、働いて給料をもらう身になりました。気楽な学生のころと違って、 “何かとわずらわしいことも多いな” と感じるようになりました。別に、何を悩んだということではありませんが、 “精神的な基盤をしっかり持っていないといけない” と思いました。

昭和28年 のころ、朝のラジオで 「ルーテルアワー」 という放送を聴きました。キリスト教会の伝道のためのラジオ放送です。指定の宛先にはがきを出してみたら、パンフレットを送って来ました。聖書 についてのいくつかの質問も付いていました。

旧約聖書 新約聖書 は、学生のときにひと通り読んでいましたので、設問に答えを記入して送ったところ、記載の誤りの訂正と共に、 “京都での集会に来てください” との勧誘を受けました。場所が勤め先に近いので、日曜出勤の早朝の仕事を済ましてから、その場所へ行って見ました。

烏丸北大路(からすまきたおおじ)近くの洋風の大きな家で、アメリカ人の宣教師と家族が住んでいて、その一室で日曜礼拝が行なわれようとしていました。宣教師は CC師 という人で、その場で招き入れられて、礼拝と集会に参加しました。

建物の玄関横に書生部屋があって、そこに OYさん という同志社大学の学生が寄宿していました。この人が、京都地区のルーテルアワー聴講者への通信を担当し、CC宣教師 の日本語での説教のローマ字書きなどの仕事をしていたのです。

OYさん は私より5歳も年下ですが、顔つきも態度も、私よりずっと大人でした。茨城県出身の典型的な関東人気質で、体も丈夫、それに大変な勉強家でした。

日本福音ルーテル恩寵教会
聞けば、近くに教会を建築中で、近く竣工とのこと。果たして、つぎに参加した日に 献堂式 (教会建物の竣工式) が行なわれ、宣教師館から教会へ儀式用具などを運ぶ行列に、私も加わりました。

教会の場所は、私の勤め先から賀茂川を隔てた対岸でした。教会の名は  「日本福音ルーテル恩寵(おんちょう)教会」。恩寵  とは、“神の恵み” のことです。

教会横の牧師館には、日本人の OT牧師 が着任して、CC宣教師 と二人で布教活動を始めました。

CC宣教師 は、自宅でも夜に  “英語で聖書を読む集い” を行なっていて、私も数ヶ月間参加しました。

私はこの教会に8年ほど通い、一時は信徒代表も勤めました。信徒代表の役目で、東京・阿佐ヶ谷のルーテル神学校に行き、教団の集会に出席したこともあります。

二人目の牧師は ID師 という異色の人。三人目の KK牧師 は、独身の若い人でした。アメリカ人宣教師も、CC師 から AP師 に代わりました。

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日本福音ルーテル恩寵教会 は、その後、 日本福音ルーテル賀茂川教会 と改称して、現在も多くの人が日曜礼拝に出席していると聞いています。

二人目の牧師・ID師 は普通の牧師の型にはまらない人で、恩寵教会 での任期中に教団の牧師職を辞し、中学生の娘さんを京都に残したまま、夫妻でアメリカに渡って、ユニティというキリスト教の団体に参加しました。私は、残されたお嬢さんの渡米のお世話をしました。

若かった KK牧師 は、その後 日本福音ルーテル教団 の代表者になったと聞きました。宣教師館の書生をしていた OYさん は、同志社大学の教員となり、法学部長・学長を勤め、同志社学園の総長になりました。今も健在と思います。


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