穂高岳・南アルプス・鹿児島
Mt.Hodaka ・ Japan South Alps ・ Kagoshima

   H I 嬢・・・リボンの君・・・生物の鬼ババア
    Miss H I

日本海での海水浴
Sea bathing in the Sea of Japan
勤め初めのころ、特定の女性とダンスなどに行って、うわさをされたので、その後は勤め先の若い仲間たちと、グループで遊びに行くようになりました。

メンバーは若い助手や事務員ですが、グループと言っても、メンバーが決まってなくて、自由参加。時には研究生などの飛び入りもありました。

この仲間で、昭和30年(1955年)前後の数年間、日本海での海水浴 や、京都北山のハイキング京都や奈良のお寺めぐり、などをしました。

京都は大都市ながら、山に囲まれていて、とくに 貴船(きぶね) や 鞍馬(くらま ) の奥の北山は、野生植物・昆虫・湧き水に恵まれて、自然が豊かでした。

このようなグループ遊びには、誰か中心になる世話役が必要ですが、その役をいつもしてくれたのが H I 嬢 です。きちんとした性格で、しかも活発。自然とグループのリーダーのようになりました。彼女は、いつも頭にリボンを結んでいるので、“リボンの君” と呼ばれていました。

京都北山ハイキング
Hike to Kitayama
お昼の飯盒炊爨(はんごうすいさん)
Cooking rice
H I 嬢生物学研究室の助手 で、私より1ヶ月後に着任しました。生物学研究室の助手のおもな仕事は、生物学実験 の準備と実験中の学生の指導です。

生物学実験 は、動植物の顕微鏡観察や小動物の解剖が多く、材料植物は畑で栽培し、カエル ネズミ などの実験動物は、業者が配達してくるのを薬品で麻酔させ、学生に配って、メスで切り裂く手本を示さなければなりません。

極めつけは、筋肉の観察に使うために、大きな 食用ガエル を、生きたまま、煮立った大鍋に放り込んで、皮を剥き、ホルマリンに漬けて標本にする仕事です。

解剖実験に使う ネズミ の中には、妊娠しているのもいて、実験中の学生が面白がって、何匹もつながっている胎児を持ち上げて見せて回ったりすると、

      「ネズミはあんた方の勉強のために、死んでくれているのですよ。もっと真剣にやりなさい!

と叱りつけます。




リボンの君 (HI嬢の顔を
描いた絵ではありません)
解剖実験に使ったネズミやウシガエル
Rat and bull frog used for the dissection experiment

生物学研究室 には、H I 嬢 の前にも助手がいたのですが、こんな動物解剖が怖くてできないと言って、やめてしまうので、生物学の教授も困っていました。H I 嬢 は、それまで 大阪の医科大学 に勤めて、法医学の 人体解剖 なども見ているので、教授が強引に引き抜いてきたのです。

彼女は、実験だけでなく、学内試験の監督 もします。替え玉受験を見つけて、学生の眼の前で答案を破り捨て、追試験を受けさせたこともありました。

こんなことで、学生たちは、H I 嬢 のことを “生物の鬼バパア” と呼んでいました。20歳代半ばで、髪の毛をリボンで結んだバパア・・・なんて、いるのでしょうか。しかし、なんと呼ばれても、彼女は平然としていました。

ところが卒業式の日になると、“生物の鬼バパア” と呼んでいた学生たちが、この “鬼バパア” に別れの握手を求めて、生物学研究室の外に、列を成して並んでいました。

その彼女が、茶道や華道で、人に教える免状を持っているというのです。 「ほんとかなー ? 」 と疑っていました。



   穂高岳登山
  Mt.Hodaka Climbing

    穂高連峰  Hodaka mountain range
昭和32年(1957年)、世間はまだ、昭和30年(1955年)から続く “神武景気” で潤っていました。と言っても、現代に比べると、まだまだ質素な暮らしでした。

私の家では、洗い終わった洗濯物を手回しで絞る 電機洗濯機 が買えて、兄嫁が喜んで使っていました。

小さい スーパーマーケット が都会の一部にでき始めていましたが、買物は、まだ商店街とデパートの時代でした。

この年の8月、今年は 穂高岳 に登ると決めていたので、これを生物学講座の H I 嬢 に話したら、 「私も行きたい」 と言い出しました。 「では、一緒に行こうか」 と誘ってみました。

穂高岳 といっても連峰になっていて、どのコースを登るつもりかと聞くと、彼女は 「まず 北穂高岳 に登る」 と言うのです。

     「北穂高は危険だから、奥穂高と前穂高とにしたら

と言いましたが、さすがに“生物の鬼ババア”の異名を採る H I 嬢、聴き入れません。

   北穗高岳 Mt.Kitahodaka    主峰・奥穗高岳 Mt.Okuhodaka
     「では、僕は涸沢(からさわ)から、まっすぐ 奥穂高 に登ることにするよ

と言って、先に一人で出かけました。

     涸 沢 Karasawa Curl  ザイテングラートの登り
「大人の遠足・お山歩日記」より転載

夕方、上高地に着いて、1時間ほど歩き、明神小屋 に一泊。翌朝、徳沢、横尾を経て、涸沢 に入り、涸沢 の真ん中から 穗高小屋 に至る、小高い尾根筋・ザイテングラート を登りました。

穗高連峰 の稜線に達し、穗高小屋 に一泊。小屋はまだ、今のような立派な山荘ではなく、古い山小屋でした。

ジャンダルムへの難路
Root to Gendarme
奥穗高岳ジャンダルム
Gendarme of ascent Mt. Okuhotaka
(画像をクリックすると大きくなります)
翌朝早く、まだ暗いうちに 涸沢岳 に登り、雲海のかなたから昇る朝日を眺めました。

朝食後、すぐに 主峰・奥穂高岳 頂上に登り、さらに南西に連なる稜線を伝って、岩峰・ジャンダルム を目指しました。

ジャンダルム とは、フランス語で “憲兵”のことだそうで、 主峰・奥穂高岳 を護衛するように立つ大岩峰。途中には “ロバの耳”と呼ばれる岩峰などがあって、ルートは、鎖につかまりながら岩肌を伝ってゆく難所です。

昼前に ジャンダルム の上に立ちました。北には 奥穂高岳、南西には 西穂高岳、360度の大展望です。

吊尾根から見る前穂高岳
Mt.Maehodaka
吊尾根から上高地を見下ろす
Looked down on Kamikouchi
ジャンダルム に別れを惜しみながら、もと来たルートを穗高小屋へ戻りました。小屋に入ると、あれ! H I 嬢 がいる! ではありませんか。

  「よく来たね!」  と言うと、夜行で来て、夕べは 北穗高の小屋 で泊ったとのこと。弟を連れていました。では    「あしたからは一緒に行動しよう」    と話しました。その夜の穗高小屋は超満員。よく眠れませんでした。

翌日は、3人で 奥穂高岳 に登頂、しばらく360度の大展望を楽しみ、続いて 吊尾根(つりおね) を伝って 前穂高岳 へ。

前穂高岳 頂上でしばし 穂高連峰 との別れを惜しんでから、岳沢(だけざわ) を降りはじめました。岳沢 の下山路はかなり急で、岩が多く、手をつなぎながら岩場を降りました。

河童橋から穂高岳を仰ぐ
Looks up at Mt. Hodaka from Kappa bridge
     
岳沢の小屋 からは、霧が巻く林の中を降りて、やっと 明神 へ下山。そして歩いて、夕方に 上高地 着。

ここで泊ることにしましたが、どこも満員。やっとひとつ、空いている旅館を見つけて部屋に入り、弟君と一緒に久しぶりの入浴。

その夜は3人並んで寝ましたが、H I 嬢 は山歩きの疲れで、早くからスヤスヤ。二人の間には、気の利かない弟君がグーグー。私はしばらく眠れませんでしたが、そのうちに寝入ってしまいました。

翌日、宿を出て、河童橋 から 穂高岳 を仰ぎ見て、 「また来るぞ!」 と思いながら、上高地 をあとにしました。帰りは、3人で 飛弾(ひだ)高山 に出て帰京しました。




   南アルプス登山・・・それから戸隠山へ
  
Japan South Alps and Mt.Togakushi

昭和33年(1958年)。この年は、前年までの “神武景気” がひとまず終息して、これからは “なべ底不況” になると言われていました。

このころの日本経済はまだまだ底が浅く、保有外貨 が少なく、景気が良くなると輸入が増えて、国際収支がすぐ悪化しました。それで、金融引き締め、日銀の公定歩合引上げ、をせざるを得なくなり、そのために景気がダウンするのでした。




夜叉神峠(初夏の写真) Peak Yashajin   北 岳 Mt.Kitadake
でも、私どもの給料には、好景気も不景気もあまり関係がなく、春から夏の仕事のあと、また登山に出かけました。

この年は、南アルプス(赤石山脈) を目指しました。南アルプス には、北アルプスの 穗高岳 より高い山があるからです。

昨年の 穗高岳 のこともあって、 H I 嬢 に   「今年は山へ行くの?」   と聞くと、  「事務職員のAK嬢と一緒に、立山と剣岳に登る」   と言います。

   「立山はいいけれど、剣岳は穗高岳より危ないよ」   と言いましたが、   「 AK嬢 が、頼りになるガードマンを連れてくるから大丈夫」   と言って聞き入れません。それで、それぞれの登山のあと、長野駅 で落ち合う日時を決めて、私は 南アルプス へ出かけました。

山梨県・甲府市から、バスで 芦安村(現・南アルプス市) へ入り、民宿に泊りました。夜、2階の寝室の窓の外には、灯火を慕って、いちめん数え切れないほどの蛾が止まりました。赤・橙・青・緑・茶・グレー・黄などなどの羽の色。気味悪くも、また美しい眺めでした。

翌朝、夜叉神(やしゃじん) へ行くトラックがあるというので、乗せてもらいました。そのころ、できたばかりの林道を走って、夜叉神峠 で降りました。

  仙丈岳 Mt.Senjou    間ノ岳 Mt.Ainodake
現在は、もっと奥の 広河原 まで車が入っているそうですが、当時は、夜叉神峠 からいったん山を向こう側へ降りて、野呂川を徒渉し、それから、林の中を尾根にとりついて登るのでした。

林を登り抜け、ハイマツ帯に入ると展望が開けて、南アルプス 白根三山(北岳・間ノ岳・農鳥岳) が眼の前です。 “八本歯の嶮(けん)” という難所を越えて、尾根に達し、右にそびえる 北岳(きただけ) を目指しました。

   農鳥岳 Mt.noutori    広河内岳 Mt.Hirogouchi
ついに 北岳 頂上、海抜3193メートル、富士山に次ぐ日本第二の高峰です。北には 鳳凰三山甲斐駒ケ岳。近くには 仙丈岳。南は 間ノ岳(あいのだけ)・農鳥岳(のうとりだけ) のかなたに、遠く、塩見岳 など 南アルプス 南部の山々が連なります。

当時、南アルプス は、北アルプス に比べて登山者がごく少なく、北岳 頂上にも数人がいるだけでした。有名な高山植物・キタダケソウ は、開花シーズンが終っていて見られず、その夜は 北岳小屋 に宿泊。泊り客もまばらでした。

  雲表を行く  Goes a cloud table
翌朝早く、間ノ岳 に登頂。間ノ岳 は山容巨大という感じで、高さも 奥穂高岳 に次ぐ日本第4位、海抜3189メートル。続いて次の 農鳥岳 に登り、さらに 広河内岳(ひろごうちだけ) へ。ここから 富士山 が美しく見えました。

広河内岳 から、遥かな眺めを楽しみながら、尾根道を引き返して、この夜は、農鳥小屋 に宿泊。

次の日、登頂した 白根三山 に別れを惜しみつつ、農鳥小屋 から山を下り、沢を伝って歩きました。沢の流れが 野呂川 に流れ込むところまで、途中の長い時間、誰にも出会いませんでした。

やっと 野呂川 沿いの道へ出て、さらに南へ歩き、その夜は 西山温泉 に一泊。西山温泉 は、温泉宿が二、三軒、土産物屋が一軒だけという、ひなびた温泉場でした。

明くる日、H I 嬢 たちと落ち合う日まで、もう1日あるので、バスで 身延(みのぶ) へ出て、日蓮宗総本山・身延山久遠寺(くおんじ) に参詣しました。それから 身延線 に乗り、甲府 へ戻って宿をとりました。

翌日、甲府 から、国鉄(現在のJR)で 長野駅 へ。夕方になって H I 嬢 ら3人が到着しました。 “頼りになるガードマン” とは、AK嬢 の知り合いの医科大学の学生でした。

善光寺 の門前近くに宿をとってあると言うので、その旅館に行き、1泊。次の日、戸隠(とがくし)高原 行きのバスに乗りました。

   戸隠山 Mt.Togakushi   戸隠山・蟻の戸渡し
The ridge named Arinotowatashi
戸隠高原 に着いて民宿に入り、体調の良くない AK嬢 を宿に残して、H I 嬢 と医学生のNG君と私の3人で 戸隠山 に向かいました。

戸隠山 は標高1900メートルくらいの山ですが、行者が修行する山で、わざと危険な場所を通るように、コースが作ってあるというのです。その代表が  “蟻の戸渡し”  という難所でした。100メートルほどの距離の岩場で、歩く所は幅50センチほど、両側は絶壁です。

一人ずつ渡ることにして、まず、 H I 嬢 がスタスタと歩いて渡りました。次は私の番。3分の2くらいまでは歩いて行きましたが、そこでバランスを失って、座り込んでしまいました。

座ってしまうと、もう立てません。あとは両脚で岩をはさみながら、座ったまま、手を突いて渡り終えました。後ろを見ると、NG君も途中で座り込んでいました。ここは、つかまる鎖もない、怖い場所でした。

翌日、それぞれの山での思い出を抱きながら、帰途に着きました。


   九州旅行・・・鹿児島へ
  
Travel to Kagoshima

昭和33年(1958年)10月。福岡県 久留米市 で 園芸学会 があり、その後、いくつかの組に分かれて、園芸産地見学に出かけました。私は一番遠い 「鹿児島県見学組」 に加わりました。

      櫻 島 sakurajima
今と違って、当時の関西では、北海道 とともに、鹿児島 は、行った人のごく少ない、異郷とも言える遠い場所でした。国鉄(現在のJR)で、熊本 から 鹿児島 までが、とても長くかかったと記憶しています。

鹿児島 は、男尊女卑が今も残っているところ、と聞いていましたし、街の中を、西郷隆盛のような大男がノッシノッシと歩いているところ、と思っていましたが、出会う男の人がみな、小柄なのが意外でした。

鹿児島 では、まず船で 櫻島 に渡って、櫻島 の野菜や果樹の産地を見て回りました。櫻島 は、当時もときどき噴煙を上げていました。

産地見学は,まだほかにもあったのですが、私は櫻島 から 鹿児島 に戻ったところで見学組と別れ、大隅半島 に渡りました。鹿屋(かのや) 周辺の “鷹(たか)の爪トウガラシ” の産地を見るためです。

鷹の爪トウガラシの茎葉と果実(未熟果と完熟果)
Hot Pepper ・ Takanotsume
鹿屋市への地図 The map of Kanoya
鹿児島港から、.汽船で対岸の垂水(たるみず)に渡り、バスで鹿屋に入りました。

鹿児島県農業試験場 から紹介を受けていた産地の集落に行って、栽培状況を見ました。やはり “鷹の爪トウガラシ” は、小形ながら、日本の 香辛料用トウガラシ の最高級品です。

生産農家の人に話を聞きましたが、栽培者は次第に減ってきているとのこと。理由は、一果ずつ畑で収穫するため、作業に手間がかかる、果実が小さいために収量が少ない、などでした。

産地を見たあと、志布志に出て、日南線・日豊線で帰りました。

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栃木三鷹
Tochigi Santaka
香川本鷹
Kagawa Hontaka
この時期からあと、日本の経済成長とともに賃金も上昇し、収穫に多くの手間がかかる 鷹の爪 や、香川県・岡山県の 本鷹(ほんたか) などの、香辛料用トウガラシ栽培 は急減しました。

静岡県三鷹(さんたか) は、房成り性のために、収穫手間が少なくてすむ品種ですが、それでも栽培が減り、三鷹 の産地は栃木県へ移ってゆきました。

鹿児島 へは、その後、10数年おきに2度訪れました。行くたびに、近代的都市へと変貌し続ける 鹿児島市 の街の姿を見ました。


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