中国との戦争始まる
War with China
    盧溝橋事件・・・大戦争の始まり
   
Lukow-kiao incident ・ The beginning of gigantic war    
昭和12年7月7日夜、中国の北京市西南部の永定河に架かる橋・盧溝橋(ろこうきょう) 附近で、演習中の日本軍に突然銃弾が打ち込まれる事件が起こりました。日中戦争の発端となった 盧溝橋事件 です。

The incident by which a bullet is suddenly driven into the Japanese army in an exercise arose the night of July 7, 1937 in the Lukow-Kiao bridge in China. It is the Lukow-kiao incident used as the beginning of Sino-Japanese War.

現在の盧溝橋  Lukow-kiao bridge (now)
当時の中国は、蒋介石率いる中華民国革命軍がほぼ中国全土を制圧し、南京を首都としていました。ただ、中国北部はまだ充分安定しておらず、日本はこの地域の権益と在留邦人の生命財産を保護するために、5000人ほどの駐屯軍を置いていました。

The Republic of China revolutionary army led by Chiang Kaishek gained control of the China whole country mostly, and China of those days made Nanjing the capital. However, northern China was not stabilized enough yet, but Japan had placed about 5000 persons' garrison, in order to protect the life property of the rights and interests of this area, and a Japanese resident abroad.

子供の私は、日本の軍隊がなぜ中国で演習していたのか、大人の人に聞いた覚えがありますが、そのわけはよく分かりませんでした。ずっとのちになって、明治33年(1900年)に、当時の清国が欧米列強や日本に対して宣戦布告した 北清事変 の講和の際に、北京や天津のある河北省一帯に日本の駐屯軍を置くことが決められた、ということを知りました。

Although I, a child, had the memory it was asked to the grown-up person why the army of Japan was exercising by China , the reason was not understood well. It got to know that became behind all the time and it was decided that a Japanese garrison was assigned in whole Hebei Province which has Beijing and Tianjin in the case of peace of the Hokushin incident to which China of those days declared war to European and American or Japan in Meiji 33 (1900).


そのころ、北京・天津・上海などの中国の大都市の中には、租界 という外国の支配する地域があって、そこに住む自国民の保護のために、アメリカ・イギリス・フランス なども1000人を越える兵力を置いていました。

At the time, the area which a foreign country called a settlement governs is in the big city of China, such as Beijing,Tianjin, and Shanghai, and it had placed the military power in which U.S. British France etc. exceed 1000 persons for protection of the nationals who live there.


盧溝橋 周辺では、日中両軍が交戦し、日本軍にも10名以上の死者が出ました。事件は局地的な事件として治まるはずでしたが、当時の中国では抗日意識が強く、それまで敵対していた国民政府軍と共産軍とが、協力して日本軍に対抗することになり、戦火はさらに拡大してゆきました。

Both armies fought in the daytime and ten or more people were killed also in the Japanese army around Lukow-kiao.
Although the incident must have been subsided as a local incident, in China of those days, anti-Japanese consciousness was strong, and the Nationalist-Chinese-government army and communal society army which were opposing till then will oppose a Japanese army in cooperation, and it further expanded war fire.


小学校では、事件の数日後の朝礼のときに、校長先生から、戦争のような状況になったことについての説明がありました。

日中戦争は、その年の内に中国中部に広がり、翌年には中国南部にまで及んで、両国間の全面戦争になりましたが、双方ともそれぞれの事情で宣戦布告はせず、日本では事変と呼んでいました。この 盧溝橋事件 が、その後8年間も続く大戦争の始まりでした。

Although Sino-Japanese War spread in the central part of China in the inside of the year, southern China was reached in the next year and it became the all-out war between both countries, both sides did not do declaration of war under each situation, but were calling it the incident in Japan.
This
Lukow-kiao incident was the beginning of the gigantic war which eight years follow after that.



     近衛内閣   Konoe Cabinet
    
昭和12年(1937年)6月盧溝橋事件 の1ヶ月前、公爵・近衛文麿が総理大臣に任命され、第一次近衛内閣が成立しました。

June 1937, duke Fumimaro Konoe were appointed as the Prime Minister and the First Konoe Cabinet was materialized.

 近衛文麿 Fumimaro Konoe
     (出典 Wikipedia)
二・二六事件の処分で、軍部の力がそがれたかに見えましたが、衰えたのは、陸軍に二派あった 皇道派 の方で、統制派 はいっそう力を強めました。その 統制派 の中心人物が 東条英機 でした。

There was 2 group in japanese army. Although it seemed that the military authorities were weakened by disposal of the February 26th Incident. Control group power was strengthened further. The Control group, the central figure ・ Hideki Tojyo it was .


二・二六事件 のあと、国政に対する軍の圧力はいっそう強くなり、総理大臣の人選にも介入しました。

February 26th Incident The pressure of the army to government became still stronger, and the back intervened also in the Prime Minister's appointment.

当時は、議員内閣制ではなく、総理大臣の任命は、天皇が元老や内大臣から推薦を受けて組閣を命じるものでしたが、天皇の指名した人物が気に入らないと、軍部は陸軍大臣を出さないなどの形で抵抗し、出来た内閣も数ヶ月で総辞職する事態が続きました。

It was not a lawmaker cabinet government those days, and although the Emperor ordered appointment of the Prime Minister formation of a cabinet in response to recommendation from a senior statesman , when the person whom the Emperor nominated was not pleased, the situation which resists in the form of the military authorities not taking out an army minister.Then, having appeared the Konoe Cabinet It is.


そこで登場したのが 近衛内閣 です。総理大臣・近衛文麿 は、そのとき46歳という異例の若さ。若くして貴族院議長を務めましたが、大臣の経験はありませんでした。しかし、その若さと家柄の良さと長身で上品な風貌が、国民になんとなく清新な感じを与えたようです。

近衛家は、遠い昔・平安時代に権力を誇った 藤原氏 の末裔の本家筋に当たります。長い武家政治の間は逼塞(ひっそく)を余儀なくされ、明治維新でも、下級公卿(くげ)の三条実美・岩倉具視・西園寺公望らの活躍をただ見ているだけでした。

明治になって、父の近衛篤麿は、家柄の格から公爵を授かり、貴族院議長にもなりました。でも政治の中枢に入ることは出来ず、政策を言っても、伊藤博文山縣有朋に一蹴されていました。それで度々清朝末期の中国に行き、さまざまな交流をしましたが、41歳で死去しています。

近衛文麿 は、学習院から旧制第一高等学校、東京帝国大学から京都帝国大学に転学して卒業と、学歴としては秀才でした。でもやはり良家のお坊ちゃん、権謀術数に長けた軍部や内外の政治家に対しては、人が良すぎ、理想が先走りしていました。

近衛首相 は、日中戦争を何とか早く和平に持ち込もうと工作したようですが、いつも軍部に妨害されたそうです。それに、軍の統帥権者のはずの 昭和天皇 が、二・二六事件 以後は、軍に対して何の指示命令もしなかったようです。昭和12年11月には、日露戦争以来の大本営が設置されたのに。

近衛内閣 は、その後も、間をおいて第二次、第三次 と組閣されますが、近衛文麿 が総理大臣となるたびに戦線が拡大していくのを、当時の私でも、子供心に感じました。

さて、現代・・・。しばらく前から、父や祖父が総理大臣を務めた、マスコミの言う ”お坊ちゃん総理” が現れては消えました。そのたびごとに国家財政の健全化を唱えながら、財政赤字は増えていくばかり。なにか、昔の近衛内閣を思い出させる政治状況ですね。



    軍歌・・・露営の歌   War song ... Song of a bivouac
    
昭和12年(1937年)、日中戦争が始まって、軍歌が次々に作られるようになりました。

軍歌の始まりは、戊辰戦争のときの「宮さん宮さん」で、西南の役や日清戦争・日露戦争でも、いくつもの軍歌が作られています。外国を見ても、軍歌はどこの国にもありますね。フランス国歌・ラ・マルセイエーズは、軍歌そのものです。

古関裕而 Yuji kozeki
(出典 Wikipedia)
日中戦争昭和12年7月に始まってすぐに、ある新聞社が軍歌の歌詞を公募しました。そしてできたのが、「進軍の歌」と「露営の歌」です。「進軍の歌」が入選作、「露営の歌」 は佳作でした。露営とは、野外で陣を構えることですが、兵はそこで野宿するのです。

進軍の歌」には軍楽隊が曲を付け、そのレコードのB面に 「露営の歌」 を入れました。「進軍の歌」が勇壮な行進曲なのに対して、「露営の歌」 は、詞も曲も兵の心情を踏まえた勇壮・悲壮まじわる歌で、「進軍の歌」よりもずっと親しまれ歌われました。その一番の歌詞は、

   勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからは
   手柄立てずに 死なりょうか
   進軍ラッパ聞くたびに まぶたに浮かぶ旗の波・・・・・

           
                                  (
時雨音羽 編著 日本歌謡集 より引用

露営の歌」 の歌詞は五番までありますが、そのなかに「」という言葉が3回、「いのち」が2回出てきます。日中戦争開戦直後から、戦争が死と隣りあわせだ、ということを教える歌でした。

露営の歌」 の作曲者は 古関裕而(こせきゆうじ)。 古関裕而 は、その後いくつもの戦時歌謡の作曲をしています。でも、彼の作曲する歌は、どれも勇ましいだけの軍歌ではありません。詞を選び、これに兵や民衆の心情をありのまま表現しているような曲を作りました。

軍歌・戦時歌謡は第2次大戦中にたくさん作られました。そのうちで、私は、暁に祈る・愛国の花・海ゆかば の3つが、歌詞も曲も格調高くすぐれた歌だと思います。これらはどれも対米英開戦以前に作られた歌で、このうちの2つが 古関裕而 の作曲です。

昭和16年(1941年)12月の太平洋戦争開戦後も、軍歌は作られ続けましたが、歌詞も曲も次第に質が落ちていった感があります。 露営の歌YouTube で五番まで聴くことができます。



     愛国行進曲  A patriotic march
    
富士山  Mt. Fuji
昭和12年(1937年)12月、かねてから内閣情報部が作詞・作曲を公募していた国民歌が発表されました。題して「愛国行進曲」。作詞は森川幸雄という人、作曲は軍艦マーチを作曲した元海軍軍楽長・瀬戸口藤吉。一番の歌詞は次ぎのとおりです。

  見よ東海の 空明けて 
  旭日(きょくじつ)高く 輝けば
  天地の正気(せいき) 溌剌(はつらつ)と
  希望は躍る 大八州(おおやしま)
  おお晴朗の 朝雲に
  そびゆる富士の 姿こそ
  金甌(きんおう)無欠 揺ぎなき
  わが日本の 誇なれ ・・・・・


                  (
時雨音羽 編著 日本歌謡集 より引用

国はこの歌を大々的に宣伝し、国民こぞって歌うように奨励しました。レコードは各社から発売され、当時で100万枚も売れたそうです。出征兵士を送るときも、この歌を歌って激励するようにいわれました。

でも、この歌の歌詞には漢語が多くて、庶民には難しく、七五調の8行詩と長いために、音感の鈍かった当時の大人は、うまく歌えませんでした。

それに、当時の人々は、こんな長調の勇ましい曲よりも、悲壮感を持つ短調の曲の方が好きでした。出征兵士を送るとき、はじめは 愛国行進曲 を歌って歩き出すのですが、まもなく 「露営の歌」 や 「戦友」 に代わってしまうのでした。

日中戦争 の戦局は、このころまだ楽勝が続いていました。しかし召集令状が来て出征するということは、表向きはめでたく名誉なことといっても、本人や家族にとっては、つらく悲壮なことでした。

戦友」 にまつわる話は、このホームページ・野菜こぼれ話第十一話・京の瓜生石 の枝ページ に載せています。愛国行進曲 戦友YouTube で聴くことができます。



     京の裏表  Both sides of Kyoto
  
京都国立博物館正門 (列島宝物館より)
Kyoto National Museum main gate  
昭和13年4月、私は 小学四年生 になりました。四年生にもなると、世の中のこともかなり分かるようになります。

一学期の副級長に選ばれましたが、級長・副級長になると、嬉しくない用事がありました。欠席した子の家へ、その日の宿題を持って行かされるのです。

細い路地の奥へ入っていくと、狭い家が並んでいます。家の中は六畳一間と土間だけ。その土間で、級友は父親の仕事の手伝いをしていました。板紙に色絵を貼り付けたものを型に打ち抜く仕事で、刃のついた型を持つ相棒の役をしていたのです。

学区内には、こうした狭い路地と、その中の狭い粗末な家がたくさんありました。学区内には京都国立博物館三十三間堂などがあって、立派な建物が建っていました。しかし、そのすぐ前の狭い路地を一歩入ると、貧しい庶民の住まいが密集していたのです。

京都とは、昔も今も、表裏の格差の大きい町 だ、と私は思います。あの路地の中、今はどうなっているでしょうか。

I think that Kyoto is still a town where the gap of the back and front is large a long time ago also.


     前のページ Back    次のページ Next Page

     目次ページ へ      to Table of Contents