愛染かつら・双葉山
Aizenkatsura ・ Futabayama

   愛染かつら・・・不朽のメロドラマ
     Aizenkatsura ・・・ An everlasting melodrama
    
田中絹代
Kinuyo Tanaka
上原 謙
Ken Uehara 
昭和13年(1938年)9月、松竹映画 「愛染かつら」 が封切られました。上原謙田中絹代 主演のこのメロドラマは、とくに女性に大人気を博し、映画は空前の大ヒットとなりました。

それに加えて、最初の主題歌 「旅の夜風 」が詞も曲もすぐれていて、いっそう人気を高めました。私の町内のレコード店も、そのころはこの歌ばかり鳴らしていました。

   花も嵐も踏み越えて 行くが男の生きる道
   泣いてくれるな ほろほろ鳥よ
   月の比叡を 独り行く・・・・・・・・


      西条八十 作詞 ・万城目正 作曲
          (
時雨音羽 編著 日本歌謡集 より引用

このころ、日中戦争開戦からすでに一年以上もたっていましたが、まだ世間は、それほど緊迫感がありませんでした。戦前は、女学生が一人で、または女学生同士が連れ立って、映画館へ入るのは禁止されていましたが、この禁を犯して 愛染かつら を見に行くものが続出しました。

Although the Sino-Japanese War was already left recently for one year or more, the world did not have a feeling of tension so much yet. What it commits this prohibition that a schoolgirl goes into a movie theater alone prewar days although forbidden, and goes to see one after another.

主題歌を歌う松原操 と霧島昇
Misao Matsubara and noboru kirishima
who sings a title tune
私の一番下の姉が、このころ女学校高学年でした。やはり親の止めるのも聞かずに、この映画を見に行きましたね。松竹はこの大ヒットを見て、その後、後編、完結編まで作りました。

この映画を見た女性は、すっかり感激して、今に 上原謙田中絹代 が結婚すると思い込んだくらいです。ところが、このとき、上原謙 はすでに 小桜葉子 と結婚していて、前年には男の子(のちの加山雄三)が生まれていました。

この映画が縁となって結婚したのは、主題歌をデュエットした、霧島昇 ミス・コロンビア こと 松原操 でした。

でも、こうした大型メロドラマは、この 愛染かつら が最後だったと思います。日本の軍国主義が一段と強まり、世界中が戦争へと向かい始めましたから。

愛染かつらの主題歌シリーズ 旅の夜風  悲しき子守唄  愛染草紙  愛染夜曲 は、どれも  YouTube で検索して聴くことができます。



    近衛声明・・・東亜新秩序建設、てなに?
    Konoe declaration ・ New Order in East Asia construction ?

近衛文麿 が総理大臣になって、すぐに始まった 日中戦争 は、昭和12年(1937年)のうちに中国北部から中部に広がり、年末には、首都・南京(なんきん) が陥落しました。

Sino-Japanese War spreads from northern China to the central part within 1937, in an end of the year, capital Nanjing was occupied.


日本軍の南京入城式 (出典 Wikipedia)
The Nanjing ceremonial entry by Japanese army
普通の戦争では、首都が占領されれば降伏、となるのですが、蒋介石 総統は、中国国民政府を奥地の 重慶 に移し、あくまで抗日戦争を続ける構えを示しました。それで、日本側の戦争不拡大方針は、宙に浮いてしまいました。

In an ordinary war, when the capital was occupied, it was surrendering. But President Chiang Kaishek moved Nationalist Chinese government to Chongqing of the hinterland, and he showed an intention to continue an anti-Japanese war to the last.


明けて昭和13年(1938年)近衛首相 は、重大な声明を3回も、内外に向けて発表しました。

1月 第一次近衛声明・「中国国民政府を相手にせず
11月 第二次近衛声明・・「東亜新秩序建設
12月 第三次近衛声明・・「近衛三原則・・・善隣友好、共同防共、経済提携」

この年、私は小学四年生。新聞も読んでいましたが、この声明は、どういうことなのか、分かりませんでした。いま戦争をしている相手に  「相手にせず」  とは、どういうことなのか。「東亜新秩序」 て、どんなことなのか。大人の人に聞いても、よく分かりませんでした。

このうち 第三次声明 は、重慶から 汪兆銘 という人物が脱出して、南京に作った 新政府に向けての声明 ということを知って、分かりました。しかし、汪兆銘 に追随する高官は、誰もなかったそうです。

この間、5月には中国北部と中部をつなぐ 徐州 で大会戦があり、10月には南部の 広東、中部奥地の 武漢 を占領しました。しかしこれ以後、戦線は広がってゆきませんでした。徐州会戦 で勝利した日本軍は、中国北部と中部をつなぐ全域をほぼ掌中に収めましたが、のちに、この戦で1万5千人を越える日本兵が戦死した、と知りました。

徐州会戦 に従軍した作家・火野葦平 は、従軍記 「麦と兵隊」 を雑誌に発表し、これを元に、藤田まさと作詞、大村能章作曲の同名の歌が作られ、東海林太郎(しょうじたろう) が歌って大ヒットしました。この歌も 「露営の歌」 と同様、勇ましい軍歌ではなく、従軍する兵の心情を歌うものでした。その5番の歌詞は、

     往けど進めど 麦また麦の 波の深さよ 夜の寒さ
     声を殺して 黙々と 影を落として 粛々と 兵は徐州へ 前線へ
 

       戦時歌謡 麦と兵隊YouTube で聴くことができます。

私の従兄弟が、長く中国中部に出征従軍していました。復員後に聴いたところ、「奥地の桂林まで行ったが、中国はあまりにも広く、弾薬や物資が尽きて引き揚げざるを得なかった」 と言っていました。

いろいろやってみても、どれもうまくゆかなくなったお坊ちゃん総理・近衛文麿 は、いやになって昭和13年末に政権を投げ出し、1年半続いた 近衛内閣 は総辞職しました。

この年、日本国内はまだ平穏でしたが、4月に、「国家総動員法」 という法律が出たと聞いて、何かただならぬことが始まるような予感がしたのを覚えています。



    双葉山敗れる!!   Futabayama A great Sumou Star
   
昭和14年の昔。話題は相撲です。この年の1月15日の放課後、私は町内の同級生の家へ遊びに行っていました。この子の家は果物屋で、冬は焼き芋を商っていました。私たちは、この店のラジオで、大相撲の中継放送を聴いていました。

横綱・双葉山
Sumou Star Futabayama
まだ食糧事情は問題になってなくて、店には大きなサツマイモがたくさん置いてありました。通りがかりの大人の人も、数人が店へ入って一緒に放送を聴いてました。

当時の大相撲は、無敵・双葉山 の連戦連勝で大変な人気でした。当時は本場所が年2回だけ。1場所の日数が11日だったのが、双葉山 の人気で観客が入りきれず、13日制になっていました。子供たちもみな相撲ファンでした。

双葉山 は、小結のときから勝ち星を続け、全勝、全勝で、関脇、大関、横綱と駆け上がり、今日勝てば、70連勝という節目の記録になるのです。この日の対戦相手は、前頭の 安藝の海 で、勝って当然の相手でしたから、気楽にラジオを聴いていました。

ところが取り組みの途中から大変な騒音で、アナウンスが全く聞こえなくなってしまいました。しばらくして、やっと聞こえたのは 「双葉山敗れる!! 双葉山敗れる!!」 という声。これが 双葉山 の連勝が69で終わった瞬間でした。

双葉山 は、この敗北で気抜けしたのか、3日続けて負けました。この敗北のとき 「われ、未だ木鶏(もっけい)たりえず」 と知人に語ったことが伝説として残っています。

木鶏”とは木で作った闘鶏のこと。木鶏のような心になって、気負わず、怖れず、泰然自若として戦うという、中国の古典にある言葉、ということをのちに知りました。

この、双葉山 69連勝は、江戸時代の名横綱・谷風 の63連勝を150年ぶりに越え、その後80年近くを経ても、だれも破ることのできていない大記録です。

双葉山 は、この場所のあと、滝に打たれるなどして精神力を鍛え、15日制となった翌場所には全勝、その後も横綱として活躍して、昭和19年(1944年)に引退しました。

戦後、新興宗教に入信したりしましたが、年寄・時津風 を名乗って、昭和32年(1957年)日本相撲協会の理事長となり、相撲界の改革や弟子の育成に尽しました。

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この 双葉山 の精進振りに比べて、今の相撲界はどうでしょう。強い力士は外国人ばかり。日本人の力士は、精進を誓ったはずの大関までが賭博をしていたという有様。

相撲道は心・技・体といいますが、今は技と体ばかりで、精神修養が抜け落ちているようです。力士は皆、国技という名に恥じない行ないをしてもらいたいですね。



     ノモンハン事件  Nomonhan incident  

昭和14年(1939年)、私は小学五年生。この年の5月、旧満州(現・中国東北部)西北部の、モンゴルと国境を接するノモンハンというところで、満州軍とモンゴル軍との間に小競り合いが起こりました。

破壊された日本軍戦車
The destroyed Japanese army tank
1939, I am the fifth graders in an elementary school. In May of this year, the skirmish took place between the Manchuria army and the Mongolian army in the place where the border in the Mongolia and Manchuria (northeast part of China)

はじめはごく小規模な局地戦でしたが、関東軍(旧満州に駐留した日本陸軍)が応援に出動して、モンゴル 国内の拠点を爆撃しました。

これに対して、当時 モンゴル を勢力下においていた ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦) は、戦車・装甲車多数を擁する大部隊を派遣、日本軍との激しい戦闘に発展しました。

On the other hand, the Soviet Union which had set Mongolian under influence those days developed into the intense battle with dispatch and a Japanese army the voluminousness party which has a tank and armored car a large number.

大草原や砂漠での戦闘では、戦車や装甲車などの数や装備の差が勝負を決めるそうです。日本軍も激しい戦を挑みましたが、ソ連 の機械化軍団の力にはかなわず、敵側の主張する国境線まで押し戻されました。

この戦闘は3ヶ月も続き、ソ連 側にもかなりの損害を与えましたが、日本軍の戦死者は 1万7千人を越え、1個師団が全滅するという、明らかな敗北でした。

Although this battle continued as long as three months and remarkable damage was done also to the Soviet Union side, the person killed in war of the Japanese army was a clear defeat that exceeded 17,000 soldiers.

当時、この ノモンハン事件 の様子は、国内では少し報道されただけで、日本国民が事件の真相を知ったのは、戦後になってからでした。

作家・司馬遼太郎は、自身が戦車部隊の将校で、満州にもいたことから、ノモンハン事件 に強い関心を持って、資料集めもしましたが、書くことはありませんでした。人には、「ノモンハン事件を書いたら、私は死ぬよ」 と洩らしていたと聞いています。


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