戦時統制経済
 Wartime control economy
  戦闘帽で入学 A school is entered with a field cap

昭和16年(1941年)3月
、私は小学校を卒業して、4月商業学校に入学 しました。このときから全国の小学校は、国民学校 と名を変えました。私の年代は、戦前の小学校最後の卒業生です。

I graduated from the elementary school in March, 1941, and it entered the business school in April. The name of elementary schools all over the country changed from this time to a national elementary school. Therefore, my age is a graduate of the last of prewar days in an elementary school.

入学した商業学校(当時の写真)
戦 闘 帽 field cap
(出典 Wikipedia)
入学した商業学校は、元は市内で一番の難関校でしたが、もうこの年には、経済の統制化が始まっていて、受験者の倍率も下がり、楽に合格しました。

戦前の中等学校は、男女共学ではありません。教員も生徒も全員男子。男子の中等学校にあたる、五年制の女子の学校は別にあって、高等女学校といいました。 

商業学校といっても、低学年では、国語・数学・歴史・地理・物理・化学・生物 などの一般科目が多く、旧制中学校とあまり変わりませんでした。歴史は、国史(日本史)・東洋史・西洋史 の3科目がありました。

中等学校で新規に受ける科目は、英語、教練(きょうれん・軍事教練 のこと)、武道(剣道または柔道) で、全部必修科目でした。英語 は、英文和訳・英作文・英会話 の3科目が1年生からありました。

教練 の教師は、予備役(よびえき) になった少尉か中尉くらいの中年の軍人数人で、いつも軍服を着ていました。これとは別に、配属将校 というのがいました。配属将校 は、軍から直接出向している現役(げんえき) の中尉でした。

学校の制帽 は、それまで丸型でしたが、この年の入学者から、戦闘帽 に代わりました。戦闘帽 というのは、その上に 鉄兜(てつかぶと) がかぶれる形の帽子です。

Although the regulation cap of the school was a round shape till then, it is better instead of from the new student of this year a field cap. A field cap is on it. It is a hat of the form where a steel helmet is influenced.

登下校のときは、この 戦闘帽 をかぶり、編上げ靴を履き、脚にゲートル (巻脚絆) を巻きつけるのです。まさに戦闘員そのものの姿です。電車通学者は、学校の前まで乗ることを許されず、2キロほど離れた停留所で降りて、そこからは学校まで歩きました。

This field cap was worn at the time of commute to and from school, it wears lacing-up shoes, and twists gaiters around a leg. It is just the combatant's itself figure. The train attending-school person was not allowed to ride front of the school, but got down at the stop about 2 km away, and walked from there to the school.

国中が 軍国主義一色 に包まれるなか、急速にきびしい時代に入ってゆくのが、ひしひしと感じられる時期の入学でした。

While the inside of a country was wrapped taken over by militarism, a rapid pimple is carried out, and entrance of the time felt tightly is, and went into the time.

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私の入学したこの商業学校は、戦後、普通高校になったり、商業高校になったりしましたが、今は中学校を併設する総合高校として、校舎も改築され、立派に存続発展しています。



  配給制と切符制・・・戦時統制経済始まる
   Rationing and Ticket system・・・Wartime control economy starts

衣料切符  garments ticket
奈良県立図書情報館・戦争
体験文庫
より許可を受けて掲載)
昭和16年(1941年)4月米の配給制 が大都市で始まりました。いよいよ、戦時統制経済 に突入です。各戸に米穀配給通帳が配られ、一人1日当り、白米2合7勺(486ml)の配給から始まりました。その後、米の配給量は、2合3勺(414ml)、2合1勺(378ml)と、次第に少なくなってゆきました。

The distribution system of rice started in the larger cities. It is inrush still more at wartime control economy. The rice ration pass-book was distributed to every house, and it began from distribution of 486 ml of one-person polished rice per day. Then, the ration of rice decreased gradually with 414 ml and 378 ml per day .

小学生の私などの知らないうちに、昭和14年(1939年)から昭和15年にかけて、経済の統制化に必要な法令が、次々に決められていたのです。

地代・家賃 については、昭和14年10月地代家賃統制令 が施行されて、賃貸料はその時点の額から変えられなくなりました。家賃収入の多かった我が家では、父が  「これでは、貸家の修繕ができなくなる」  と嘆いていました。

生活物資の統制による供給には、配給制 切符制 がありました。米などの主要食糧は 配給制 で、砂糖・マッチなどは 切符制 でした。衣料品も昭和17年(1942年)から 切符制 になりました。味噌・醤油も 切符制 だったと思います。

There was a ticket system that it was rationing in supply by control of a daily commodity. Rationing was for essential food, such as rice. Sugar, match, etc. were ticket systems. Clothing also became a ticket system from 1942. I also regard bean paste and soy sauce as it having been a ticket system.

切符制 というのは、一人当たり1年間に買える点数が決まっていて、衣料品で言えば、何か一品買うと、品ごとに定められた点数分の切符が切り取られ、切符を使い切れば、その年は、もうそれ以上、衣料品は買えない、という仕組みです。

父は、統制の始まる前に、どこからか、大人が入れるくらいの大きな木箱二つと、石鹸・足袋(たび)を、驚くほど大量に買い込んできて、その木箱に詰め込み、納屋に収納しました。そして 「人には言うな」 と口止めしました。



  ABCD包囲陣  Envelopment of Japan by ABCD

ABCD包囲陣 は、ABCD包囲網 ともいい、東アジアに権益を持つ国々が、日本に対して行った貿易制限のことです。日本の新聞が付けた呼び名といわれています。

The countries which the members of ABCD envelopment also call it an ABCD encircling net, and have rights and interests in East Asia are the trade restrictions which went to Japan. It is called the name which the Japanese newspaper attached.

チャーチル
 イギリス首相
Prime Minister
Churchill Britain
ルーズベルト
アメリカ大統領
Roosevelt
U.S. President
蒋介石
 中華民国総統
Chiang Kaishek
President of China
ABCD とは、アメリカ(merica)、ギリス(Britain)、中華民国(China)、オランダ(Dutch)の頭文字を並べたものです。

The initial of the United States of America, Britain , the Republic of China, and the Netherlands (Dutch) is compared with ABCD.

戦前の 日本 は、鉄鋼原料や石油を アメリカ からの輸入に頼っていましたが、このころには、すでにかなりの制限を付けられていました。イギリス は同盟国ドイツの交戦相手で、中華民国 の 蒋介石政権 に援助をしていました。中華民国 は日中戦争の交戦相手です。

Although Japan of prewar days depended for steel materials or oil on import from the United States, at this time, remarkable restriction was already imposed. Britain is a hostilities partner of ally Germany and was helping the Chiang Kaishek Administration of the Republic of China. The Republic of China was a hostilities partner of Sino-Japanese War.

オランダ は、本国が ドイツ に占領され、ロンドンに亡命政府ができていましたが、蘭印(らんいん・オランダ領東インド・現在のインドネシア全域) はまだ オランダ領 で、バタビヤ(現在のジャカルタ) には出先の オランダ政府機関 がありました。

Although in the Netherlands its native country was occupied by Germany and the government in exile was made in London, Netherlands territory east India (the present Indonesia whole region) is still the Netherlands territory. Batabiya (present Jakarta) had the Netherlands government of a destination.

この 蘭印政府 は、スマトラ島などから産出する石油や鉱物資源を持ち、米英と協調して、日本への資源輸出を制限していました。日本は、蘭印政府 に大臣を派遣して、石油や鉱物の貿易を増量するように交渉を繰り返しましたが、成功しませんでした。

This government had restricted the resource export to Japan in harmony with the U.S. and Britain with oil and mineral resources which are produced from Sumatra etc. Japan repeated negotiation so that a minister might be dispatched to this government and the quantity of trade of oil or a mineral might be increased, but it was not successful.

日本 は、日中戦争 日独伊三国同盟 が響いて、貿易や資源確保の面で、一段と窮地に立たされることになりました。

Pplight is made to stand much more about trade or resource reservation under the influence of Sino-Japanese War or Triparite Pact by Japan, Germany and Italy by Japan.



   宮城遥拝   Worship far for The Imperial Palace
   
宮城 (現在の皇居)
昭和16年(1941年) に私が入学した商業学校では、毎日の朝礼のとき、東に向かって 宮城 遥拝しました。低学年は帽子を脱いで最敬礼。上級生で、1時間目が 教練 (きょうれん・軍事教練のこと。中等学校の授業科目のひとつ) のために軍装をしているクラスは、銃に着剣して 捧げ銃(ささげつつ) をします。

ある日、宮城遥拝 で頭を下げたとき、手に持った帽子を地面に落としました。拾おうとすると、隣の級友が取り上げて返そうとしないので、黙って相手の手首を握りつけて、取り返しました。

頭を上げると、かなり離れたところにいた柔道の教師がつかつかとやって来て、

     「宮城遥拝 のときに何をしとるか!!

と怒鳴るないなや、私も級友もバンバンと顔を叩かれました。柔道六段の手ですから、ずいぶん痛かったですよ。後で考えてみると、頭を下げたまま、声も出していないのに見つかったのは、この先生、自身は皆と一緒に、宮城遥拝 をしてなかったのですね。

昔の中等学校では、教師が生徒の顔を叩くのは日常的なことでした。 教練 武道体操 の教師がよく生徒を叩きましたが、教室の授業でも、英語 数学 などの教師が、出来の悪い生徒を前へ呼び出して、叩くことがたびたびありました。

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敗戦から数年後に、私を叩いた柔道の教師に電車の中で会いました。でも、往年の迫力は全く見られませんでした。叩かれたことは話しませんでしたが、どこかの学校で、国語を教えていると言ってました。この先生、ほんとに国語が教えられるのかな、と思いましたね。


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