飢餓列島・日本
Starvation islands ・ Japan
   
・   畜産学専攻・・・子豚の珍味
   Zootechny major ・・・The dainty of baby pigs

昭和22年(1947年)になっても、世情は一向に好転しませんでした。相変わらず、食糧も物資も極端に乏しく、インフレ はますます進行し、どん底の暮らしが続いていました。

Even if set to 1947, the public condition did not improve at all. Since food and goods were extremely scarce as usual and inflation advanced increasingly, the life of a bottom continued.

この年の4月、私は、農林専門学校3年 に進級しました。旧制の時代、3年生は最終学年です。最終学年ではどれか専門分野を決めて、それを専攻しなければなりません。農学科の専門分野は、作物学果樹園芸学蔬菜園芸学植物病学畜産学 でした。私は、畜産学専攻することに決めました。

In this year, I was promoted in the third grade of an agriculture and forestry college in April. In the time of the old system, the third grader was the last grade. In the last grade, students had to decide a special field of study and had to major in it. The special field of study of the department of agriculture, crop science, pomology, vegetable crop science, phytopathology, and zootechny it was . I decided to major in zootechny.

乳牛(ホルスタイン) Dairy cow (Holstein)
日本は、今は惨めな国になって、食べるものもろくにないが、やがては白い御飯も、好きなだけ食べられるようなるだろう。その次は、肉や卵を求めるだろう。乳・肉・卵・皮 を生産し、供給するのは 畜産 だ、その勉強をしよう」 と思ったのです。

"In Japan, although it becomes a pitiable country now and there is nothing that is eaten enough, white boiled rice will also become as eat soon, as he likes .The next will ask for meat or eggs. Producing and supplying milk, meat, egg, and the skin .Stock raising it is . I will carry out the study . I thought "

兎(チンチラ)
Rabbit (chinchilla)
畜産学 の教員は、K教授 M助教授。K教授 からは理論を、M助教授 からは実技を習いました。

学校には乳牛・和牛・豚・鶏・兎など、教材になる家畜が、少数ながら、ひと通り飼育してありました。家畜の飼料は、教育機関には配給があったようです。

In school, he had bred briefly livestock which becomes teaching materials, such as a dairy cow, Japanese cow, pig, hen, and rabbit, with a small number. It seems that the feed of livestock had distribution in educational facilities.

そのころの 下鴨 は、京都市街地 の北端。当時の 北山通り は、幅3メートルの砂利道。それより北は 上賀茂 の集落や 深泥池(みどろがいけ) まで、いちめん田畑が広がっていました。

同級の 畜産学 専攻生は4人。M助教授 からは、飼料の配合や与え方、畜舎の掃除を始め、豚の屠殺(とさつ)と解体、ハムやベーコン作り、子豚の去勢、乳牛の乳しぼり、豚や兎の雌の発情の見分け方、などなどの実技を習いました。

子豚(ヨークシャー)Baby pig (Yorkshire)
当時、近くの農家では、小規模の養豚が始まっていて、雄の子豚の 去勢 をたくさん頼まれました。

去勢手術 は、二人で子豚を動かないように押さえ、こう丸 の外皮を消毒し、メスで外皮を切り裂いてこう丸を引っ張り出し、元を縛って切り取り、外皮を糸で縫合する、という方法でした。

慣れてくると上手になって、中身の こう丸 に消毒液が付かないように摘出できるようになります。一個の大きさは、直径3センチくらいでしたか。

これを捨ててしまうことはないと、同じ畜産学専攻 のU君の下宿に持ち込み、同宿のもう一人が持っていたタマネギ・ジャガイモと一緒に煮込んで、3人で食べました。食べるもののない時代、これは格別のおいしさでした。



    御飯食べたさに、香川県へ
   For Kagawa prefecture in order to eat boiled rice.

昭和22年(1947年)8月の夏休み、畜産学専攻生 4人は、M助教授 に連れられて、淡路島 にある農林省(現在の農林水産省)の 種畜牧場(しゅちくぼくじょう) の見学に行きました。京都からの日帰りは無理なので、淡路島 から来ていた同級生の家に、一泊させてもらいました。

海水浴をした有明浜
The Ariake beach which it bathed in the sea
このころの旅行は、自分の食べる米を持参したものです。5合(0.9リットル) 程度の米の運搬は、旅行者に限って認められていました。

種畜牧場 というのは、家畜繁殖用の 種牛(たねうし) などを飼育している国の機関です。ここでは、擬牝台(ぎひんだい) の中に入って、牡牛(ぼぎゅう・雄牛) から繁殖用の 精子 を採取する現場を見せてもらいました。

擬牝台(ぎひんだい) というのは、体操用の跳び箱を大きくしたような構造物の外側に牛の毛皮を張って、雌牛(めすうし) に似せたものです。

乳牛の雄(おす) は体がとても大きく、擬牝台 に向かって突進してくるのを、のぞき窓から見ると、猛獣のようでした。

淡路島 からの帰途、明石で M先生ら と別れ、同じ専攻の U君 と二人で 四国 へ向かいました。実は夏休み前に、寮に入っている M君 に誘われていたのです。

      「四国の僕の家まで来たら、白い飯 を好きなだけ食わしてやるぞ

という誘いでした。M君 の家は、香川県の西部・観音寺 の近く、常盤村(ときわむら・現在は観音寺市の一部) というところでした。

金刀比羅宮本殿  kotohiraguu
夜遅く、宇野 に着いて、桟橋を走って 宇高(うこう)連絡船 に乗り、未明に 高松 着、予讃線(よさんせん) に乗って “もとやま” という駅で下車して、道々尋ねながら、M君 の家にたどり着きました。

M君 の家は地主で兼業農家、お父さんは、地元の小学校の校長先生でした。

大変歓迎してくれて、2泊し、その間に、有明浜(ありあけはま) で海水浴をしたり、金刀比羅宮(ことひらぐう) に連れてもらったりしました。もちろん、白いご飯 は、うんとたくさん食べさせてもらいました。

今の人は、四国 まで行く汽車賃があるなら、それで米を買えばよいのに、と思うでしょう。

しかし、当時は 超インフレ 時代。闇米(やみごめ) はどんどん値上がりして高価なうえに、簡単には手に入らず、一方、国鉄(現在のJR) の料金は値上がりが遅く、さらに学生割引というのがあって、とても安かったのです。

四国 へ渡ったのは、初めてでしたが、後年、私自身が 四国・香川県に住み着くとは、このとき、夢にも思いませんでした。



   食糧不足なお続く・・・山口判事の餓死
    Food shortage continues.
    The Yamaguchi judge's death from starvation


昭和22年(1947年)になっても、日本の食糧事情は好転せず、都市では、米の配給が滞る状況が続いていました。どこの家でも、衣類を売ったり、何とかやりくりをして、闇米(やみごめ) を買わざるを得ない生活でした。

Even if set to 1947, the food situation of Japan did not improve, but the situation where distribution of rice was overdue continued in the city. It was the life which sells clothing also at what house, or manages somehow, and buys black-market rice.

一方、主要食糧の違法な運搬・輸送に対しては、きびしい取締りが続いていました。そのために、闇米 は余計に高価になるのでした。
サツマイモジャガイモ なども、米に準ずる主要食糧として、取締りの対象になっていました。 

On the other hand, severe control continued to illegal conveyance and transportation of essential food. Therefore, black-market rice became expensive too many. The sweet potato, the potato, etc. had been the target of control as essential food according to rice.

警察とMP( Military Police占領軍憲兵)
による食糧輸送の取り締まり

Control of the food transportation
by the police and MP
現在のJR東海道本線瀬田川鉄橋
(りょうさんの列車撮影記)より
The present JR Central way main lin
e Setagawa Steel bridge
         
私は、滋賀県の S農場 に、その後もときどき行っていました。世話になった K農場長 が、本社工場の部長に栄転したので、農場勤務の人と一緒に作業をすることはもうありませんでしたが、空いている土地を借りて、サツマイモ などを作っていました。

Also after that, I had sometimes gone to S farm in Shiga Prefecture. Working together with the person of farm service borrowed the land which is vacant although it was not any longer, and it was growing the sweet potato etc.

秋になって サツマイモ を収穫しましたが、これを、京都の家まで、どうして持って帰るかが問題でした。当時、まだ、サツマイモ は主要食糧、きびしい取締りの対象でしたから。往復路には 瀬田の唐橋 があります。ここで警察が見張っていて、買出しの人たちが、せっかく手に入れた イモ類 を没収されていました。

Although autumn came and the sweet potato was harvested, it was a problem why this is brought home to the house in Kyoto. Because the sweet potato was treated as essential food and it was an object of severe control those days. There is SetanoKarahashi in a both-way way. Rice and the potatoes which the police is watching here and the people of laying-in got with much trouble were confiscated.

山口判事の死を報じる紙面
Space which reports
the Yamaguchi judge's death
収穫に出向いた日も、この橋で警察官が数名いるのを眼にしました。それで帰路は、見知らぬ買出しの人たちに誘われて、東海道本線の瀬田川鉄橋 を渡ることにしました。

線路は複線だから、もし列車が来たら、反対側に移ってやり過ごせばよい

と、ほかの買出し人は言います。

It found that several policemen were also in the day which went to harvest on this bridge. Then, it decided for the way home to be invited by the people of unknown laying-in, and to cross the Setagawa Steel bridge of the main Tokaido line.

"What is necessary is just to move from a track to the side opposite to unenthusiastically, if a train comes since it is a double track."

Other buyers said.


しかし、20キロほどの サツマイモ の入った重いリュックを背負って、鉄橋の線路の間に敷いてある板の上を歩くのです。下を見れば、はるか下を、琵琶湖 の水が 瀬田川 に入るのが見えます。前後から列車が来ないか見張りながら、おそるおそる渡り終えたときには、ほっとしました。

However, it was dangerous to walk on the board which carries the heavy rucksack containing an about 20 km sweet potato on the back and with which it has covered between the tracks of an iron bridge. When seeing the bottom, it could be seen that the water of Lake Biwa goes the bottom into the Seta river far. I felt relieved when finishing crossing, whether a train comes from order, and.

瀬田川の鉄橋 渡りは、もう一度しました。こうした行為は、食糧管理法 などの法律違反ですが、当時の非農家の国民の大多数が、買出しや 闇米 買いなどをしていました。そうでもしなければ、食べるものがなかったのです。

The iron bridge passage of the Seta river was carried out once again. Although such an act was the breach of law of the
Staple Food Management Law, the large majority of the people of a non-farmer of those days was carrying out laying-in, black-market rice buy, etc. It was because there was nothing that is eaten if that was right and there was nothing.

一方、
食糧管理法 を忠実に守り、配給食糧だけを食べて、栄養失調で餓死した人もいました。その代表が、山口良忠(やまぐちよしただ)判事 です。

On the other hand, only defence distribution food was eaten faithfully and the S
taple Food Management Law was also in the person who developed malnutrition and starved to death. The representation was a Yoshitada Yamaguchi judge.

山口良忠 は、東京の経済事犯専任判事。闇米 などを所持していて、食糧管理法 違反で検挙・起訴された事案の担当者でした。食糧管理法 違反者を裁くのに、自分が
食糧管理法 違反をしてはいけないと思うようになり、配給食糧の多くを2人の子供に与え、自分はほとんど汁だけの粥(かゆ)をすすっていた、ということです。

Yoshitada Yamaguchi was an economic offense exclusive duty judge of Tokyo. He was the person in charge of the case who possessed
black-market rice etc., was arrested and was prosecuted for violation of the Staple Food Management Law. It is said that those who judge the offender of the Staple Food Management Law came to think that they must not carry out violation of the Staple Food Management Law, many of distribution food was given to two children, and he had sniffled most rice porridge of only juice.

山口判事 は、昭和22年(1947年)8月 に裁判所で倒れ、郷里の佐賀県白石町に帰って療養しましたが、同年10月11日、栄養失調 に伴う 肺浸潤 のため、33歳の若さで死亡しました。このことが、11月になって新聞で報道され、全国的に大きな話題になりました。

Although the Yamaguchi judge collapsed from the court in August, 1947, He returned to Shiroishi in Saga prefecture of his home town and medical treatment was received. But he died from the youth of 33 years old on October 11 of the same year for the infiltration of the lung accompanying malnutrition. November came, and this was reported by the newspaper and became the nationally big center of attention.

山口判事 の法律遵守を、立派と見るか、おろかなことと見るか、それは、人によって評価が違うでしょう。でも、この事件で、厳密に守れば死に至る 食糧管理法 なるものの意義が問われることになり、ひいては、政府への反感につながってゆきました。

Probably, evaluation differs between whether the Yamaguchi judge's law observance is regarded as splendid, or it regards as a foolish thing by people. But the meaning of the Staple Food Management Law which will die if it protects strictly in this incident will be asked, and it led to an antipathy to the government.

            
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K元農場長は、本社工場に移ったのち、

     「
S農場の職員に対して、正しい豚の屠殺(とさつ)と解体の仕方を指導してくれ

 と、私に言ってきました。私だけでは荷が勝ちすぎる仕事なので、M助教授 にお願いし、私も手伝いに同行しました。S農場 行きは、これが最後になりました。

K元農場長 は、本社工場の研究部長を勤めたあと、名古屋にある系列会社の社長に就任。退職後は、85歳まで、京都市等持院(とうじいん) の自宅で、悠々自適の日を過ごされました。

私は、最後まで交誼を続けさせていただきました。親類でもなく、学校の先生でもないのに、私が "人生の師" と仰いだ人でした。



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