新しい出発
 New start
  国家公務員試験・・・就職先に迷う
   National examination for the license of a government official
  Waver in a position
.

昭和26年(1951年)秋、日本は 講和条約締結 によって占領下を脱し、貧しいながらも独立自活の道を歩み始めました。同じとき、私自身も、大学卒業後の自分の進路を考える時期になり、そのための活動を開始しました。今でいう “就活” です。

Japan escaped from under occupation by
peace treaty conclusion, and though it was poor, it began to follow the way of independent self support in the autumn of 1951. When the same, I myself became the time to consider my own course. after university graduate. Activity for that was started. It is what is known today as "job-hunting activities."

農学科” という専門分野は、民間会社の口は少なく、農林省 に入って役人になるか、大学の助手(現在の助教) になって研究者を目指すか、どちらかでした。農林省 に入るには、3年ほど前にできた 人事院 の行なう、国家公務員試験 を受けなければなりません。

現在の人事院庁舎
The present National Personnel
Authority government building
私は、とりあえず 国家公務員試験上級職 を受験しました。クラスメートの大半が受験して、全員が合格しました。私は、専門職の  ”農学職”  と、一般職の “行政職” の両方を受けて、どちらも合格しました。

ただし、合格イコール採用ではなく、成績順に採用者名簿に載るだけ。正式の採用は、成績順に通知を受けて、部局ごとに行なわれる面接で決められます。

クラス担任の K教授 に相談したら、

君の成績順位なら、間違いなく国の 園芸試験場 に入れるだろう。しかし、農林省はT大学の者が多くいて、面白くないよ。大学助手 の方が良いと思うよ

との話。 家で姉と兄に話したら、兄は 「お前の好きなようにしろ」 というし、姉は 「なるべく京都に居てほしい」 といいます。

数日後、所属講座の N教授 が、私を呼び出して、

   「SK大学 で 助手 を採用できると言っているから、自分で行って話をしてきなさい

と言いました。SK大学 とは、大学に入る前に在学した 農林専門学校 が、学制改革で、同じ府立の 女子専門学校 と合併してできた新制大学です。SK大学 では、農林専門学校時代に教わった教授たちが、昇格した大学の 教授・助教授(現在の准教授) になって、それぞれの講座の担当者になっていました。

私は SK大学・蔬菜園芸学講座の TA助教授 に会って、助手に採用してもらえるかどうか尋ねました。TA助教授

  「君なら農林専門学校で教えてよく知っているし、ポストも空いている。ただ、学内の他講座
    から専任講師を引き受けることが決まっていて、君と年齢差が少ないのが問題だと思う


と言います。いったん取って返して、N教授 にその旨を報告しました。先輩の中には、

 「出身校に勤めるのはどうかな。以前の生徒時代の感覚が残っていて、一人前扱いされないぞ

という人もありました。もっともな意見ですが、もうひとつの大学助手の口は、兵庫県のかなり遠い場所。

母が死んだあと、ずいぶん世話をかけている姉の望みもあり、SK大学 に就職することに決めて、N教授 から SK大学 TA助教授 に採用の確認を取ってもらいました。

クラス仲間のうち、作物(さくもつ)学講座育種(いくしゅ)学講座の専攻生は、農林省入省希望が多く、果樹園芸学蔬菜(そさい)園芸学畜産学を専攻した者の多くは、大学助手志望でした。私と同じ講座専攻の TN君 S君 は、旧制大学院 への進学を希望しました。



    就職決まって背広なし
   No suit in employment having been decided.

年が明けて、昭和27年(1952年)1月、姉から、

  「あんた、就職するのに洋服をどうするの。作ってあげたいけど、かなり高価な物だし

三つ揃いの背広 A vested suit
(当時のものではありません
と言われました。服装に無頓着な私は、まだ日もあることと、のんびりしていました。父は昔からの商売人ですから、紋付きなどの着物はあっても、洋服 は持っていません。

当時は、現在のような値の安い既製服店などはなく、仕立てるか、古着を買うか、どちらかでした。でも、新しい出発に古着はいやだし、市内の一流洋服店で良い生地で仕立てるとなると、ずいぶん高い値段でした。

私は、山へ連れてもらった FM先輩 の家が、毛織物会社経営なのを思い出し、

   「背広(せびろ)生地を、一着分、分けてください」 

と頼みました。先輩 はすぐに手配してくれて、家まで受け取りに来るようにと言われました。

FM先輩 の自宅は、上京区(その後に分区して現在は北区) 平野神社(ひらのじんじゃ) の西、高級住宅地の中の大きな家でした。そして、上等の紺色生地一着分を、大変安い値で譲ってくれました。

これを、姉の知り合いの洋服仕立て職人に仕立ててもらって、とても良い三つ揃いの 背広 が出来上がりました。

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背広 という呼び名は古い言葉で、今は スーツ と言うそうですね。当時は、上着・チョッキ・ズボンの三つ揃いが普通でした。

FM先輩 は、旧制の大学院在籍中も山岳部のキャプテンをつとめ、ヒマラヤのアンナプルナ登頂隊にも加わりました。大学では、私も同じ研究室の別室にいましたが、FM先輩 のところへは、のちに文化勲章を受賞した 梅棹忠夫 さんや、探検家、登山家たちが、よく話に来ていました。

FM先輩 は、その後、高槻農場主任を経て、兵庫県農業試験場に入り、幅広い試験研究を仕上げて、兵庫県農業試験場 の 場長 を長くつとめました。 



     卒業論文提出・・・その日に父の死
   Graduation-thesis presentation … father's death to the day

昭和27年(1952年)3月3日午前、私は、清書し終わった 卒業論文 N教授 に提出しました。

私に当てられた研究テーマは、この時期の講座の主要研究題目の一部でしたから、N教授 もすでに内容は KN講師 から聴いていて、「しっかり、よくやった」 とほめてくれました。

そのあと、研究室の別室に戻っていると、講座事務員の ICさん が急いでやって来て、

  「お姉さんから電話がありました。 『取り込みごとができたのですぐに家に帰るように』 とのことですよ

と言うのです。

現在のJR西日本・東海道線山科駅
Yamashina Station of present JR West Japan
何事かと急いで家へ帰ると、姉から、父 が交通事故で死んだ場所は山科(やましな)、今、兄が引き取りに行っている、と告げられてびっくりしました。

家の中の片付けなどしていると、知り合いの葬儀社の人が、兄と共に、もう棺に入った の遺体を積んで帰ってきました。

事故は東海道線山科駅 の少し東、線路を横断しようとして、貨物列車にはねられたとのことです。

は、5年あまり前の母の死のあと、気分的にかなり落ち込みましたが、店が元通りになって、元気を取り戻していました。しかし、若いときに田舎から単身で大都会に来て、きびしい労働に明け暮れた は、もうすっかり老人になっていました。

気持ちも穏やかになって、私に対しても、大学入学後は 「店をやれ」 などと言わなくなりました。

は、若いときから商売一途で、何の趣味も持たない人。ただ足腰はまだしっかりしていて、数年前から、天気が良いと、京都東山一帯のお寺を回ったり、奇麗な庭を見て歩いたりしていました。迷子になることもなく、いつも元気な顔で帰ってくるので、別段心配はしていなかったのです。

母の時よりは、時代も、家の経済状態も、少しは良くなっていたので、世間並みの葬式をして 父 を送りました。享年67歳。当時67歳というと、ほぼ平均寿命の年齢でした。大学卒業 を目前にして、私は両親とも失い、いやおうなく自立の道を進むことになりました。



    大学卒業・・・学びの人生終る
   Graduate from university ・・・ The life of learning finished

雪の大学時計台
Snowy university clock tower
卒業式後の同級生一同
The classmates after graduation ceremony
昭和27年(1952年)3月下旬、父の忌明けも済まないうちに、大学卒業式 の日が来ました。3月下旬というのに、当日、京都 では雪が降りました。

End of March, 1952. Before the father's expiration of the period of mourning was also settled, the day of the university graduation ceremony came. It snowed to the end of March in Kyoto on the day.

卒業式 と公務員試験合格者に対する農林省各部局の面接の日が重なって、農林省入省を希望する級友たちは東京へ行き、卒業式 に参列したのはクラスの6割ほどでした。

式ののち、前庭で記念写真を撮り、互いに 「元気に頑張ろう」 「また会おう」 と励ましあって、別れを告げました。

A commemorative photo was taken after a formula in a front garden, and we were each other. "You will do your best vigorously". It encouraged "To meet again", and and said good-bye.

         緑吹く 樟の葉風に 時の鐘 継ぎて響けば
         人の世に まこと立つべく 現身に まこと立つべく
         たまきわる 命をこめて いしずえ 堅く築かん
         伸びゆく 強き力の 日出づる 国の子われら ・・・
大学学歌より

級友は、北海道から九州まで 全国に散りました。京都市内 に職を得たのは、私を含めて3人だけ。幼稚園入園以来約20年。学校で学ぶ人生が終わり、次なる人生 に踏み出した日でした。

The classmate dispersed all over the country from Hokkaido to Kyushu. It was only three persons who got the job in Kyoto including me. It has been about 20 years since kindergarten entrance. It was the day which the life studied in school finished and stepped toward next life.


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