弁慶 五条大橋の擬宝珠


野菜こぼれ話・第一話で、擬宝珠はネギの苞の形から来たのだと言いました。このページでは京都・五条大橋の擬宝珠のお話をしましょう。

でも、なぜ五条橋なのでしょうか。それは、この橋が昔からの長い歴史と伝説を持っていて、欄干に擬宝珠が付いた最初の橋だと思うから。そして、この橋の東詰がチューさんのふるさとだからです。

昭和11年版文部省小学国語読本巻三 「牛若丸」 より 歌詞をクリックすると曲が鳴って
全歌詞が出ます


清水寺本堂

五条橋
での牛若丸武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)の戦いはあまりにも有名です。降参した弁慶は牛若丸(のちの源義経)の家来になり、最後まで義経に忠節を尽くしました。近代になってこの五条橋の牛若・弁慶伝説が全国の小学校で歌に歌われ、国語の教科書で読まれたことから、五条大橋の知名度は日本一に高まりました。

源義経 屋島合戦図
五条橋はもともと清水寺(きよみずでら)参詣のために架けられた橋で、平安時代から中世まで清水寺が管理して、渡る人に寄進を求めたりしていました。平安中期の女流歌人・赤染衛門(あかそめえもん)は何回目かの架け替え供養に参加した歌を詠んでいます。後白河法皇の編纂した梁塵秘抄(りょうじんひしょう)には五条橋を次のように歌っています。

「いずれか清水(きよみず)へ参る道 京極(きょうごく)くだりに五条まで 石橋よ 東の橋詰(はしづめ) 四つ棟(むね)六波羅堂(ろくはらどう)・・・・ 」

 この歌で、平安時代後期には五条橋が堅固な石作りになっていたことがわかります。牛若・弁慶伝説が事実とすればこの時代のことになります。
 室町時代、五条橋はこの世と霊界との交流点のように思われていたようです。当時の古典文学書・御伽草子(おとぎそうし)にはそんなお話がいくつもあります。

平成6年(1994年)のNHK大河ドラマ「花の乱」では五条橋が幻想的な橋に仕立てられていました。
将軍・足利義政(あしかがよしまさ)日野富子(ひのとみこ)はここで運命的出会いをし、そして、最後に義政は橋の上で富子に抱かれながら息絶える・・・というストーリーになっています。これは史実ではありませんが、脚本を書いた市川森一氏はこの時代の話に五条橋が欠かせないことをよくご存知だったのでしょう。このころまでの五条橋は、今より380メートル上流・今の松原橋のところにありました。

豊 臣 秀 吉
五条橋を現在の位置に変えたのは豊臣秀吉です。橋だけでなく、それまで六条坊門と呼んでいた道路を新たに五条通として、それまでの五条通を松原通に名称変更したのです。

新五条橋の築造には豊臣五奉行(ぶぎょう)のひとり増田長盛(ましたながもり)が当たりました。天正18年(1590年)秀吉の五条橋完成。伏見に城を構えた秀吉は、都への街道を新しい五条通につなぎ、多くの家臣を従えて威風堂々五条橋を渡って洛中に入りました。

チューさんは、戦前、橋のたもとに増田長盛の名を刻んだ擬宝珠があったのを覚えていますが、今もどこかに残されているのでしょうか。

明 治 天 皇
文部省尋常小学国史下巻より
江戸時代に何回か橋は擬宝珠もろとも流失しましたが、失われた擬宝珠を追加して架け直されました。江戸初期・正保年間(1644〜1648年)の擬宝珠は現存しています。チューさんの子供のころには、増田長盛の建てた石造の橋脚が鴨川の中に立っていました。今は京都国立博物館の中庭に保存されています。 

明治維新になって廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が叫ばれ、明治11年(1878年)に京都府知事・槙村正直(まきむらまさなお)は五条大橋の擬宝珠を全部取り外してしまいました。それから2年後、明治天皇が全国巡行の途中京都に来られ、五条大橋をお渡りになりました。見渡されると擬宝珠がありません。

天皇は、「あの擬宝珠はどうした!」とお尋ねになりました。槙村は恐れ入って擬宝珠を元に戻したということです。槙村はもと長洲藩の下級武士。擬宝珠が仏教由来のものではなく、
ネギの花の霊力をシンボライズしたものだということを知らなかったのでしょう。明治天皇の一喝によって、五条橋の擬宝珠はよみがえりました。
 
 <ことば豆辞典>

梁塵秘抄 平安時代末期に後白河法皇が編纂した歌集。今様(いまよう)が主だが和歌もある。梁塵とは建物の梁(はり)に積もっている塵のこと。中国古代の有名な美声の歌い手が歌うとき、梁の上の塵が舞い立ったとの故事による命名。
増田長盛 1545‐1615。織豊-江戸時代前期の武将。豊臣氏五奉行のひとり。大和(奈良県)郡山(こおりやま)に20万石を領した。関ケ原の戦いで西軍につき,高野山に追放。のち自害
廃仏毀釈
仏教を廃し釈迦(しゃか)の教えを棄却する意。明治政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教への排斥運動。明治元年(1868)神仏分離令発布とともに、仏堂・仏像・仏具・経巻などに対する破壊が各地で行われた。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

聖ヨハネ教会堂(明治村
画像をクリックすると大きくなります
チューさんが五条大橋を渡るようになったのは、昭和8年(1933年)、橋の西・河原町五条にあったキリスト教会の幼稚園に通うようになってからです。4歳の幼児の見上げる橋の欄干の擬宝珠はとても大きな存在に見えました。橋の上から上流を見ると比叡山がそびえ、さらにそのかなたに京都北山や比良山系の山々が連なる美しい眺めです。

幼稚園のあった
聖ヨハネ教会堂は、明治40年(1907年)に建てられたもので、今は重要文化財となって愛知県犬山市の明治村に移築保存されています
明治村公式ホームページトップ)。

幼稚園児から小学生になった年の昭和10年(1935年)6月、京都市一帯は大豪雨に見舞われ、五条大橋をはじめ鴨川に架かる木造の橋はほとんど流失しました。五条大橋の
擬宝珠の幾つかは大阪湾近くで見つかったそうです。数ヶ月の仮橋渡りののち、五条大橋は元の姿に架け直されました。

昔の五条大橋
画像をクリックすると大きくなります
現在の五条大橋
それから6年後、中等学校に入ったチューさんはまた毎日五条大橋を渡ることになり、以後約20年間通学通勤のため橋を渡り続けました。今まで五条大橋を渡った回数は何万回になりましょうか。
現在の五条大橋を架けたのは、戦後の京都市長・高山義三(たかやまぎぞう)。第二次大戦中に、旧道路南側の建物の強制疎開が行なわれた五条通は、戦後、幅50メートルの大通りになり、国道一号線として交通の大動脈の役目を担うことになりました。橋もそれに見合う規模が必要です。高山義三は、昭和25年(1950年)以後16年間の市長在任中、鴨川に北山大橋・御池大橋を新設し、また四条大橋の架け替え
高 山 義 三
には欄干のデザインを公募しました。

しかし五条大橋の架け替えにはデザインの公募制をとりませんでした。高山義三は、チューさんの実家から数軒東の五条通の生まれ育ち。五条大橋と欄干の擬宝珠には強い愛着があります。それに牛若丸の飛び乗った故事のイメージをどう残すか。

熟慮の末、彼は橋の本体をコンクリート、欄干を石造りとして、柱には昔どおりの擬宝珠を載せ、新しく鋳造した擬宝珠には高山義三の名を深く刻み付けました。昭和34年(1959年)新五条大橋完成。3月2日に竣工式が行われ、現代の五条大橋は開通しました。


新五条大橋開通の2ヵ月後、チューさんは実家を離れ、ピカピカ光る擬宝珠に別れを告げてこの地を去りました。
       
        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 
五条大橋の擬宝珠は、単にチューさんの郷愁の対象というだけのものではありません。
明治天皇豊臣秀吉源義経という日本史上超一級の人物と深いかかわりを持つ文化財なのです。



現在の五条大橋の写真は(株)サイネックスのホームページから転載させていただきました。また高山義三元市長の写真は、ご子息・高山寛氏の御了承を得て、義三氏の自叙伝「わが八十年の回顧」から転載させていただきました。御厚意あつく御礼申し上げます。



*** 五条大橋リンク集 ***

ここに掲載しているウェブサイトは、セキュリティ上安全と判定されたものです。

旅おりおり・五条大橋 京都旅楽・五条大橋 京阪本線・鴨東線全駅・五条
五条通・丸竹夷二押御池 京都・五条大橋


 前のページへ  次のページ     目次ページ   トップページ

今昔ばなし・青春のひと時のページに戻る