付 藻 茄 子
薄茶と菓子
 付藻茄子は九十九茄子とか九十九髪茄子とも書きます。読み方はどれも「つくもなす」または「つくもなすび」です。いったいどんなナスでしょうか。実はこれは野菜のナスではありません。茶道(さどう・ちゃどう)で使う茶道具(ちゃどうぐ)の一つ、茶入(ちゃいれ)に付けられた名前です。茶入は抹茶(まっちゃ)を入れる陶製の容器ですが、どうして茶の容器に茄子の名が付いているのでしょうか。また「付藻とは何の意味でしょうか。九十九や九十九髪をどうして「つくも」と読めるのでしょうか。そして、この小さい茶入が、どれほどの値打ちのあるものなのでしょうか。



茶樹(チャノキ)
武野紹鴎像
千利休画像
茶樹は中国原産の植物。日本には、平安時代前期に最澄(さいちょう)や空海(くうかい)らがタネを中国から持ち帰って栽培を試みたといわれますが、長続きせず、鎌倉時代の初めに、禅宗開祖の栄西(えいさい)らが中国から抹茶(まっちゃ)とともに茶のタネを持ち帰ってから、栽培が本格的に始まりました。

そのころの抹茶は漢方薬のよう扱われていて、嗜好品となったのは室町時代に入ってからのようです。室町時代には、飲んだ茶の銘柄を当てる遊びが流行しました。また、唐物(からもの)と称する本場の中国で作られた茶器(ちゃき)がもてはやされ、大名(だいみょう)たちが大金を払って集めた茶器を使って、盛大な茶会(ちゃかい)を催すことが流行しました。

これに対して、室町時代中期の茶人・村田珠光(むらたじゅこう)は茶会での賭博(とばく)や飲酒を禁じ、亭主と客との精神的交流を重視する茶会のあり方を説き実践しました。それで村田珠光は
わび茶の祖といわれています。わび茶はその後、堺の豪商・武野紹鴎(たけのじょうおう)やその弟子の千利休(せんのりきゅう)によって安土桃山時代に完成され、この流れが現代の茶道に至っています。

 <ことば豆辞典> その一

【最 澄】 767-822。近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の出身。天台宗の開祖。留学僧として中国(唐)に渡り修行。比叡山延暦寺を創建した。伝教大師
【空 海】 774-835。讃岐国多度郡(現在の香川県善通寺市)の出身。真言宗の開祖。中国(唐)に渡り修行。高野山金剛峰寺を創建。弘法大師
【栄 西】
1141-1215。臨済宗の開祖。備中国(現在の岡山県)吉備津神社神官の子。中国(南宋)に渡り禅を修行。建仁寺を創建。「喫茶養生記」の著作がある。

【抹 茶】 若い茶の葉を蒸して乾燥し、葉柄や太い葉脈を除いて石臼で挽いて粉末状にしたもの。
【村田珠光】 1423-1502。室町時代中期の僧侶・茶人。わび茶の祖といわれる。 
【武野紹鴎】 1502-1555。武具や皮革を商う堺の豪商で茶人。
【千利休】 1522-1591。倉庫業を営む堺の商人。武野紹鴎に茶を学び、豊臣秀吉に仕え、茶道の指南役を務めた。

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茶入と仕覆 棗(菊桐)
茶器とは茶道で使う抹茶(まっちゃ)を入れる容器の総称です。茶器には、陶磁器製の茶入(ちゃいれ)と、木製の薄茶器(うすちゃき)とがあります。薄茶器はナツメの果実に形が似ているので(なつめ)と呼ばれ、漆塗りの豪華なものもあります。

現在の茶道では、茶入には濃茶(こいちゃ)用の抹茶を、棗には薄茶(うすちゃ)用の抹茶を入れるという使い分けが定着しているようです。

濃茶・薄茶といってもどちらも同じ抹茶ですが、濃茶用には上質の抹茶が使われます。薄茶用の抹茶にはさまざまな品質のものがあります。

 茶道具には釜(かま)や茶杓(ちゃしゃく)などほかに多くの品がありますが、やはり茶器と茶碗が中心といえましょう。また茶入にはそれを入れる袋・仕覆(しふく)が付いていて、銘品ではその生地や色柄も定まっているようです。また盆や置き台のついているものもあります。


折戸ナス
茶道具のなかには名物(めいぶつ)と呼ばれるものがあります。「名物」という言葉は「古来有名な物として珍重されてきた品」という意味ですが、その道具自体の価値はもとより、所持者や伝来によって、特別のものとして分類するために呼ばれた言葉です。

このうち、鎌倉時代に渡来し室町時代に唐物(からもの)として珍重された茶器は、大名物(だいめいぶつ)としてその後の茶人や大名・豪商たちの限りない所有欲をかき立てて転々と受け継がれ、その多くが有名美術品として現代にまで伝えられています。その代表的存在が
付藻茄子茶入なのです。

茶器のうち、12〜13世紀の南宋(なんそう)から(げん)の時代に中国で作られた陶器の茶入は、厚みが薄く優美な形をしていて、茶人の間で宝物のように扱われてきました。もともと中国では油壺として作られたようですが、当時まだ良い陶磁器のなかった日本では、貴重な品として扱われたのでしょう。茶入はその形から肩衝・文琳・茄子・丸壷などに分けられます

  肩衝 (かたつき)・・・・・ 縦長で肩の部分が突き出ている形。
  文琳 (ぶんりん)・・・・・ 林檎(リンゴ) の果実を意味する言葉。ほぼ球形か、わずかに縦長。
  茄子 ( な  す )・・・・・ 下部の膨らんだ球形。野菜の
ナスの果形に似ていることからの名称。
  丸壷 (まるつぼ)・・・・・ 首長く下部は球形かやや扁平。さらに扁平なものを大海(たいかい)という。


茶入各種 (名古屋・宝雅堂の写し物茶器より)
残月肩衝 白玉文琳 京極茄子 土田丸壷 白鼠大海

どの形にもそれぞれに名品がありますが、なかでも茄子は落ち着きのあるその形から、唐物茶入のなかの最高品として珍重されてきました。「茄子は天下、肩衝は将軍」といわれるくらいです。今の長卵形や中長形のナスを見ている人には、昔の茶入の茄子形は丸すぎると思われるかもしれません。ても、野菜こぼれ話第三話・一富士二鷹三茄子の中で徳川家康が好んで食べたといわれる折戸(おりど)ナスを思い出してください。茶入の姿とぴったりでしょう。昔は折戸ナスのような小型の丸ナスが多かったようです。

では、その茄子形の茶入で現在まで伝えられている大名物を挙げてみましょう。


伝来は主な持ち主のみを記載しました。紹鴎茄子は同名のものがありますが、鴻池家に伝わった方を記載しました。
名 称 伝 来 現在の所持者
国司茄子 こくしなす  伊勢国司北畠家-松花堂昭乗-若狭酒井家-藤田家 藤田美術館
北野茄子 きたのなす  松本宗不-秀吉-久松松平家-徳川本家-野村徳七 野村美術館
富士茄子 ふじなす  足利義輝-曲直瀬道三-信長-秀吉-加賀前田家 前田育徳会
付藻茄子 つくもなす  足利義満-義政-信長-秀吉-家康-藤重家-岩崎家 静嘉堂文庫美術館
松本茄子 まつもとなす  珠光-松本珠報-信長-秀吉-藤重家-岩崎家 静嘉堂文庫美術館
宗悟茄子 そうごなす  十四屋宗悟-織田可休-徳川綱吉-土屋家-五島家 五島美術館
茜屋茄子 あかねやなす  茜屋吉松-家康-尾張徳川家 徳川美術館
福原茄子 ふくはらなす  松平飛騨守-新庄越前守-奥州伊達家-島家 島家
七夕茄子 たなばたなす  足利義政-針屋新左衛門-橘屋宗玄-加賀前田家 前田家
京極茄子 きょうごくなす  京極家--秀吉--家康-徳川本家-紀州徳川家 紀州徳川家
紹鴎茄子 じょうおうなす  松本珠報-紹鴎-信長-秀吉-家光-東本願寺-鴻池家 湯木美術館
利休物相 りきゅうもっそう  利休-徳川家光-伊達政宗-升屋平右衛門-岩崎家 静嘉堂文庫美術館
兵庫茄子 ひょうごなす  利休-船越伊予守-萬野裕昭 萬野美術館

これらの大名物茶入を現代の有名陶芸作家が複製した「写し物」が世に出ています。その一部を写真で見てみましょう。

大名物茶入の写し物 (名古屋・宝雅堂の写し物茶器より)
 国司茄子  北野茄子 茜屋茄子 福原茄子
京極茄子 付藻茄子 (画像をクリックすると本物が見られます) 利休物相
これら大名物茶入のなかでも、付藻茄子は千利休が天下一の大名物と激賞した最高品で、これに松本茄子と富士茄子を加えて天下三茄子と呼んでいます。

 <ことば豆辞典> その二

【ナツメ】 中国北部原産のクロウメモドキ科の落葉高木。果実を乾燥して菓子の材料や漢方薬にする。
【濃 茶】 1人分茶杓に3杯くらいのたっぷりの抹茶に少量の湯を注ぎ、練るようにかき混ぜた、ポタージュスープよりややゆるい程度のとろりとしたお茶。茶道では濃茶が本式とされ、これを回し飲む。
【薄 茶】 茶杓1杯半くらいを1人分として,多目のお湯を入れ攪拌したもの。茶道では略式の立て方とされる。

【茶 杓】 茶道具の一つ。茶器から抹茶をすくって茶碗に入れるためのさじ。長さ17〜21cmくらい。竹製のものが多い。
【南 宋】 中国の王朝の一つ。中国北部にあった宋王朝が、女眞(じょしん)族の金(きん)に攻められて中国南部に移り、再興した王朝。1127年から1279年まで中国南半を支配した。
【 元 】 中国の王朝の一つ。1271年〜1368年まで中国全土とモンゴルを領有支配したモンゴル人の王朝。




付藻茄子は、九十九茄子九十九髪茄子とも書き、松永茄子とも呼ばれています。室町時代の初め、足利(あしかが)三代将軍・義満(よしみつ)の秘蔵の品でした。代々足利将軍家に伝えられていましたが、八代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)はこの品を寵臣・山名政豊に与えました。

15世紀末になって、これをわび茶の祖・村田珠光が九十九貫文で買い取ります。九十九貫文で買い取ったことから「つくも」の名が付きました。それは、在原業平(ありわらのなりひら)をモデルにした古典・伊勢物語の第六十三段にある左の有名な歌にちなんで珠光が名づけたといわれています。

この歌では、「百」の字から「一」を消すと「白」になることから、「つくも髪」は白髪を意味していますが、「つくも」は次百(つぐもも)をつづめたもので、未来のあるめでたい言葉でもあります。
明智光秀

珠光の没後、戦国時代の間、付藻茄子は数奇な運命をたどります。持ち主は次々に代わり、売買のたびに値段が跳ね上がりました。

 越前一乗谷の朝倉太郎左衛門が入手したときは五百貫、越前武生(たけふ)の豪商・小袖屋(こそでや)に一千貫で売られました。小袖屋は仕覆(しふく)を作らせるためか、この茶入を京都の商人・袋屋に預けました。

 ところが、天文(てんぶん)5年(1536年)に比叡山延暦寺や近江(おうみ)の六角氏が京都の法華宗(ほっけしゅう)の寺々を攻めた天文法華の乱が起こり、この戦乱の間に
付藻茄子松永久秀(まつながひさひで)に一千貫で買い取られてしまいます。

その後、松永久秀は織田信長の配下となり、久秀は忠誠の証(あかし)として付藻茄子を信長に献上しました。信長は付藻茄子を特に愛用したのでこの茶器の名は一段と有名になり、当時信長の庇護を受けてキリスト教の布教活動をしたポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスも、その著作の中に付藻茄子のことを書いているそうです。

 天正10年(1582年)の本能寺の変の前夜、信長はこの茶器を使って本能寺で茶会を催しました。そして、その数時間後、明智光秀が信長を襲い、本能寺は焼け落ち、信長は自害して果てます。


しかし、焼け跡から奇跡的に無傷で見つかったのか、または直前に本能寺から持ち出されたかで、
付藻茄子は明智光秀にではなく、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の手に渡ります。秀吉もこの茶入を愛でて手放すことなく、子の秀頼に伝えられて大阪城内に愛蔵されていました。

大坂夏の陣図屏風右隻 部分
慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣。大坂城は徳川方に攻められ、戦火に包まれて焼け落ち、豊臣氏は滅亡します。戦後、徳川家康の命令で焼け跡から探し出された付藻茄子はかなり破損していました。

家康は奈良在住の漆(うるし)接ぎの名工・藤重藤元(ふじしげとうげん)に修復を命じ、藤元・藤厳父子は心血を注いで付藻茄子を元の姿に修復しました。

その見事な修復の技量に感心した家康は、
付藻茄子を藤重家に預け、江戸時代を通じて藤重家の家宝として代々伝えられました。近年になって行なわれた付藻茄子のX線検査によると、元の器はいくつかに割れていて、それを釉薬(うわぐすり)に見せかけた漆(うるし)によって、覆うように修復されているそうです。


明治になって、
付藻茄子は三菱財閥(みつびしざいばつ)を興した岩崎彌太郎(いわさきやたろう野菜こぼれ話第十話・文様の原点・菱参照)の弟・岩崎彌之助(いわさきやのすけ)の所有となります。買い取るにあたって、彌之助はこの茶入の代金400円を兄の彌太郎から借金したと伝えられています。明治初年の400円は大金、現在の貨幣価値に換算すれば1000万円くらいでしょうか。

岩崎彌之助がこの
付藻茄子に執着したのは、単に有名茶道具のコレクションだけのことではありません。その伝来の歴史的重みに加えて「つくも
という名前に格別の思い入れがあったようです。

三菱財閥にいたる岩崎家の最初の事業は、兄・彌太郎が土佐藩の海運組織・九十九商会(
つくもしょうかい)を買い取り、高知県の木材を大阪に搬送する仕事で、彌之助も兄を助けてともに努力しました。この「つくも」の呼び名が
付藻茄子収集の思いにつながったのでしょう。

付 藻 茄 子 の 伝 来 ・ 所 有 者 の 変 遷
足利将軍家 山名政豊 村田珠光 朝倉太郎左衛門 小袖屋 袋屋
足利義満 足利義政
豊臣秀頼 豊臣秀吉 織田信長 松永久秀
藤重藤元
・藤厳
藤重家 岩崎小弥太
徳川家康 岩崎彌之助     静嘉堂文庫美術館
 <ことば豆辞典> その三

【山名政豊】 1441-1499。室町時代の大名。山名宗全の孫。子という説もある。足利八代将軍・義政の信任厚く、応仁の乱の最中に没した宗全のあとを継ぐ。
【在原業平】 825-880。平安時代初期の貴族、歌人。平城天皇の孫。阿保親王の子。在五中将と呼ばれ、日本史上最高の美男子とされる。
【伊勢物語】 平安時代初期に作られた歌物語。125段からなり、在原業平がモデルといわれる。

【 貫・貫文 】 中世での通貨の単位。1000文(もん)で1貫とされ、1貫が米1石に当るとされた。
【松永久秀】 1510-1577。通称は松永彈正(だんじょう)。戦国時代の武将。はじめ三好長慶に仕え、のちに足利第十三代将軍・義輝を殺して畿内を支配した。織田信長に服従するが、離反降伏を繰り返し、最後に大和信貴山(しぎさん)城で爆死。

【ルイス・フロイス】
1532-1597。ポルトガル人。カトリック教会イエズス会宣教師。1563年来日。織田信長の庇護を受けてキリスト教の布教活動を行なう。晩年「日本史」を執筆。
岩崎彌之助1851-1908。三菱財閥第2代総帥。初代総帥・彌太郎の弟。土佐国(現・高知県安芸市)出身。兄を助け、第2代総帥となって事業多角化に尽力。第4代日本銀行総裁。蔵書家、美術品収集家としても知られる。




付藻茄子高さ2寸2分(約6cm)、直径2寸4分5厘(約7cm)の小さな茶入。この小さな陶器の茶入ひとつが日本の中世・近世にわたって世の権力者に愛用され、はては、これを所持することが最高権力者の証でもあるかのような感覚を与えていたようです。

そして「付藻」という名前。本来は「九十九」と書くところを、単なる語呂合わせで「付藻」と書くのでしょうか。「付藻」という語は辞典には見当たりません。察するところ、万年を生きるといわれる亀は、年月を経ると甲羅に藻が着生して、これをなびかせて泳ぐといいますが、この茶入は、七百年にわたって日本での歴史の表舞台を見続けてきたからこそ付藻茄子書くのでしょうか。

ナスは、高温多湿の日本の夏に適応した数少ない夏野菜として千数百年の間栽培され、「冬はダイコン夏はナス」といわれる重要野菜でした。しかし重要なもの必ずしも珍重されず、和歌にも詠まれず、物語の材料に採り上げられることもありませんでした。しかし、図らずも、中世の文化人たちはこの丸ナスに似た下膨れの丸い形に美を見出し、この形の茶入を「茄子」と名づけて、数ある形の茶入のなかで最高位を与えました。

人間が頭の中で抽象的に考え作り出すものよりも、ナスの果実の形のように、いたるところに見られる天然の美。これらに眼を向けて感動を覚え鑑賞することが本当の美学ではないでしょうか。



このページの制作にあたって、名古屋市の宝雅堂のホームページから各種の茶入れや棗の画像を、川島安一氏の山草人のモノローグから折戸ナスの写真を転載させていただきました。また日本銀行から、第4代日本銀行総裁・岩崎彌之助氏の写真転載の許可を受けました。なお岩崎彌之助氏の写真は、届出の上、当方の責任において切り取りによる変更を行ないました。各位のご厚意に対しあつく御礼申し上げます。

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