千 成 瓢 箪

     
千成瓢箪
     
千成瓢箪の花


瓢箪
(ひょうたん)については、野菜昔ばなし第五話「夕顔一夜花」でお話しました。大昔の瓢箪は、花を観賞し完熟した果実の中身を取り除いて飲み物の容器にする植物でしたが、その後に新品種が中国から伝わったり、変わった系統ができたりして、未熟な果実を食べたり、保存食の干瓢(かんぴょう)に加工したりするようになって、野菜の仲間入りをしました。
しかし千成(せんなり)瓢箪というと、野菜や容器というよりも豊臣秀吉の馬印だといわれる方が多いのではないでしょうか。このページでは、さまざまな内容を含めて瓢箪のお話をしましょう。



瓢箪というと、野菜というよりも、水や酒を入れて持ち歩くための容器、または表面を塗装するなどして加工し鑑賞するもの、と感じる方が多いと思います。花は夕顔と呼ばれ、平安時代の昔から、夜咲く花として観賞されてきました。野菜昔ばなし第五話「夕顔一夜花」では、源氏物語に登場する花の夕顔と、この花の咲く家に住む美しい女性のお話をしました。またそのページでは、干瓢(かんぴょう)製造用として栽培されるようになった野菜としてのユウガオの説明もしています。

現在の日本の園芸学会の野菜リストには、ヒョウタンは載ってなくて、ユウガオが種名(しゅめい) Lagenaria siceraria Standl. と記載されています。でも細かくいうと、ユウガオはこの種(しゅ)のなかの一変種(へんしゅ)で、そのほかに下の表でご覧のとおり三つの変種があります。センナリヒョウタンもこの種のなかの一変種です。

画像
和 名 ユウガオ(扁蒲) フクベ(瓠) ヒョウタン(瓢箪) センナリヒョウタン
変種名 var.hispida var.depressa var.Gourda var.microcarpa
用 途 干瓢原料・スイカの台木 容器作り・観賞用 容器作り・観賞用 観賞用・野菜
                      
                ユウガオの写真は、有機・低農薬野菜の宅配サービス・らでぃっしゅぼーや株式会社提供

フクベで作った炭入れ
田中商店 提供
ユウガオは、野菜昔ばなし第五話の説明のとおり干瓢作りが主目的で栽培されていますが、スイカの接木苗の台木としても使われ、また若い果実を煮物として食べることもあるそうです。フクベヒョウタンは中をくりぬいて容器として使ったり、外側を美しく磨いて観賞したりします。

センナリヒョウタンは鑑賞用にもなりますが、ごく若い果実を煮物や奈良漬にして食べます。野菜としては珍物(ちんぶつ)とされています。またヒョウタンやセンナリヒョウタンは棚作りして、花や果実を楽しむのにも適しています。庭に作った夕顔棚の下で、夏の夕方のひと時を楽しんでいる江戸時代の絵画などが残っています。ヒョウタンを「ひさご」と呼ぶこともありますが、ひさごはユウガオ・フクベ・ヒョウタンにトウガンを加えた果実の総称です。



この歌のメロディはおけらの唱歌
のページで聴くことができます

豊臣秀吉像
でも、センナリヒョウタン(千成瓢箪)というと、野菜というよりも豊臣秀吉馬印(うまじるし)という印象が強いですね。チューさんが子供のころの小学唱歌に「豊臣秀吉」という歌がありました。その一番の歌詞は左のとおりです。これを見ると、千成瓢箪は豊臣秀吉の代名詞のようになっていますね。

秀吉が瓢箪を自分のシンボルとして使い始めたのは、まだ木下藤吉郎と名乗っていた時期、織田信長の家来として稲葉山城(のちの岐阜城)を攻めたときからだといわれています。

秀吉はこの地の状況に詳しい堀尾茂助(ほりおもすけ)に道案内をさせて城の裏山を登り、携えていた瓢箪を棒の上に着けて後続の軍兵(ぐんぴょう)への目印として掲げ、城を攻め落とす功を立てました。この手柄で信長から瓢箪の馬印を許され、その後、戦いに勝つたびにその数を増やしていったと伝えられています。


この稲葉山城攻めから23年後、秀吉は小田原の北条氏を降して全国平定を成し遂げます。卑賤の民から身を起こし、千成瓢箪の馬印を掲げて最高位の関白(かんぱく)に昇りつめ、絶大な権力者となった豊臣秀吉。日本史上これほどに出世した人はほかにありません。その秀吉は今、京都東山の地に豊国大明神(ほうこくだいみょうじん)として祀(まつ)られています。

豊国神社の鳥居 豊国神社拝殿の唐門(国宝)
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唐門横の千成
瓢箪の絵馬
神社に伝わる
千成瓢箪の馬印

1598年(慶長3年)
8月、豊臣秀吉は伏見城で死去しました。当時は朝鮮出兵のさなかだったので、側近の石田三成(いしだみつなり)らは喪を秘し、後日の葬儀に備えるため、焼酎を満たした甕(かめ)に秀吉の遺骸を入れて、京都東山・阿弥陀が峰(あみだがみね)の山腹に埋め、この地に社殿を建てました。

ところが石田三成は、朝鮮から帰国した加藤清正(かとうきよまさ)らの襲撃を受けて奉行(ぶぎょう)職を退き、さらに関ヶ原の戦に敗れて処刑されてしまいました。権力を我がものにした徳川氏は、やがて秀吉を祀る社殿を破却し、以後270年にわたる江戸時代の間、秀吉の遺骸は
そのまま放置されていました。

 <ことば豆辞典 一>

【馬 印】 戦国時代から江戸時代にかけて、武将が自分の位置や威光などを誇示するために身近に置いた印。
【堀尾茂助】 1544-1611。堀尾吉晴(よしはる)。桃山時代から江戸時代初期の大名。先祖は尾張国の土豪。父は岩倉織田家の重臣だったが、信長に滅ぼされて茂助は浪人となり、秀吉の家臣となる。秀吉の天下統一後、浜松12万石の城主となる。関ヶ原の戦では東軍に属し、出雲24万石を与えられた。

【関 白】 天皇に代わって国の政治を行なう職。語源は関(あずか)り白(もう)すから来ている。摂政(せっしょう)のように全面的な権限を持つものではなく、天皇と協議して政務を摂るものとされる。
【太 閤】 摂政や関白職を子弟に譲った人物の呼び名。
【阿弥陀が峰】 京都市の東山三十六峰の一つ。京都駅北口から右手に見える山。山頂の直下をJR東海道線の東山トンネルが貫通している。



太閤坦・豊臣秀吉墓への登り口 阿弥陀が峰山頂の豊臣秀吉の墓
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1868年(明治元年)、明治天皇は、豊臣秀吉を天下を統一しながら幕府を作らず皇室を敬った功臣として称え、豊国神社の再興を命じられました。

 1873年に別格官幣社(べっかくかんぺいしゃ)に列し、1880年(明治13年)現在地に社殿が完成しました。

 神社の南の国立博物館や北の方広寺(ほうこうじ)を含むこの一帯は、かって秀吉が京都に建てた方広寺大仏殿の跡地です。豊国神社は正式には「とよくにじんじゃ」と読むそうですが、京都の人々は「ほうこくさん」と呼んで親しんでいます。

 社殿の唐門(からもん)は,南禅寺の塔頭(たっちゅう)金地院(こんちいん)から移築されたものですが、以前は伏見城の城門であったといわれていて国宝に指定されています。


伏見の郷土史研究家の記述によると、明治になってから、秀吉の遺体を入れた甕を探して掘り出し阿弥陀が峰の頂上に埋めなおす作業が行なわれた際に、甕の中を見たところ、秀吉の遺体は京都御所の方角を向いて手を合わせていたそうです。豊臣秀吉は、現在でもこの五輪塔(ごりんとう)の下に同じ姿で存在しているはずです。

 
<ことば豆辞典 二>

【別格官幣社】 神社の社格の一つ。日本史上国家に大きい功績のあった人物を祀る神社で、官幣小社と同格とされる。社格制度は明治時代に作られ、現在はなくなっている。
【方広寺】 京都市東山区大和大路正面にある寺。昔は今よりはるかに敷地が広く、この寺に豊臣秀吉が京の大仏を建てた。
【塔 頭】 大きい寺の敷地内または近くに建つ小さい寺。大寺の始祖や名僧の墓塔の頭(ほとり)の意。




貞教小学校の校章
瓢箪桐
五七桐紋
内閣総理大臣の
演壇に掲げられる
五七桐紋
ところで、チューさんの通学していた小学校は、豊国神社の西約300メートルの所にありました。貞教(ていきょう)尋常小学校といいます。通学途中に豊国神社の西を通るので、東に見える鳥居に向かっていつも拝んでいました。

そして豊国神社から太閤坦(たいこうだいら)のあたりは、この小学校の学区でした。太閤坦への参道には、今は京都女子大学の建物や店・住宅が数多く建っていますが、昔は草木が茂り、昆虫も多く、国立博物館も敷地内は通り抜け自由で、この一帯は子供の絶好の遊び場でした。

春にはオタマジャクシをすくい、夏はトンボやセミを追い、秋には木の実を採り集めた、そんな昔を懐かしく思い出します。

貞教小学校は1869年(明治2年)に方広寺敷地のすぐ前の正面通(しょうめんどおり)に建てられ、始めは校名を正面小学校といいました。豊国神社の再建が始まったので西へ移り、校名も変わりました。1876年(明治9年)には校章が定められました。豊臣秀吉にちなんで、千成瓢箪を桐紋(きりもん)様にあしらった瓢箪桐(ひょうたんぎり)です。

左上の校章は70年前にチューさんが帽子につけていたものです。桐紋は菊紋とともに皇室の紋章で、大功を建てた臣下にのみ下賜される紋でした。秀吉も天皇から五七桐(ごしちのきり)紋を賜って、豊臣家の家紋としました。

 
<ことば豆辞典 三>
【太閤坦】京都市東山区・阿弥陀が峰の登り口にある平坦地。豊臣秀吉の死後は、ここに秀吉を祀る豊国廟があった。
【正面通】
現在は豊国神社鳥居前から西へ、渉成園や東西本願寺で中断されながら千本通まで伸びる道路。鳥居前から本町通(昔の伏見街道)までは道幅が広く、南側に耳塚(みみづか)がある。
 【五七桐紋】 
桐紋のうち3本の直立する花序(かじょ)に花が五・七・五と着いたもの。元は皇室の副紋。現在でも国の紋章として、日本の首相が国際会議で演説する際に演壇に掲げられる。



論語の現代語訳 論語の読み下し文 孔 子
ヒョウタンは非常に古い時代から人類が栽培し利用してきた野菜です。用途は食用のほか飲み物などの容器として欠かせないものでした。

以前は旧大陸だけのものといわれていましたが、南米の1万年以前の遺跡からタネが見つかったことから、太古から全世界で広く栽培・利用されていたことが分かりました。


ここで起こるひとつの疑問。ヒョウタンの漢字「瓢箪」の「瓢」は瓜の字があるが「箪」はなぜ竹冠(たけかんむり)なのか。「箪」を字典で引くと「竹で編んだ円形の器」と出ています。

さらに、中国古代の聖人・孔子(こうし)の言行録「論語(ろんご)」の第三巻に右に掲げたような語録があります。この文章の中で、子とは孔子のこと、回とは弟子の顔回(がんかい)のことです。この文を読めば「瓢」は飲み物の器、「箪」はご飯などの食べ物を入れる容器だということが分かります。

箪(たん)
飾りひょうたん
成田市藤倉商店提供
ヒョウタンは縁起の良い品といわれます。そのわけは、果実の元よりも先が大きく末広がりであること、6個集めれば六瓢(むびょう)となり、無病息災(むびょうそくさい) と語呂が合うこと、などが言われます。秀吉が馬印に使ったのもこの縁起をかついだのではないかと思います。

 これで、このページの序文の左の千成瓢箪の画像が6個である理由もお分かりでしょう。こんなわけで、瓢箪は健康と幸福を招くものとして、現在でも表面を美しく装飾して棚に飾ったり、絵に描いて床の間の掛け物にしたりします。

 <ことば豆辞典 四>

【孔 子】 紀元前551または552−前479。中国古代の聖人。儒教の開祖。
【顔 回】
 紀元前514−前483。顔淵ともいう。孔子の弟子の中で随一の秀才といわれたが、師に先立ち若くして死んだ。
【無病息災 
病気をせずに健康であること。「息」は防ぐの意で、もとは仏の力によって災害・病気などの災いを除く意。

しかし、ヒョウタンが縁起の良い物と言われるもっと根本的な理由は、瓢箪が大昔から人間生活の根源となる飲み物と食べ物を表わす言葉であり品物であったからだ、とチューさんは思っています。

太古の時代、ヒョウタンは人類の生活になくてはならぬ栽培植物だったに違いありません。木材や金属やプラスチックでどんな容器でも作れる現代になっても、遠い遠い石器時代の記憶が頭の奥底のどこかに残っているのでしょう。



このページの制作にあたって、序文左の千成瓢箪の画像は タキイ種苗株式会社 カタログから、右の花の写真は草花写真館のホームページから転載させていただきました。また、本文中のユウガオの写真は有機野菜・低農薬野菜・無添加食品の宅配サービス・らでぃっしゅぼーや株式会社のホームページから、ヒョウタンとセンナリヒョウタンの画像は青木繁伸氏の植物園、フクベの画像はShu Suehiro氏のボタニックガーデン、フクベの炭入れの写真は和歌山県田辺市の囲炉裏と火鉢の道具・田中商店のホームページから転載させていただきました。

豊国神社の鳥居はマコト氏のブログから、絵馬はさぁちゅんさんのブログから、唐門は列島宝物館、馬印と太閤坦は京都探索隊のそれぞれのホームページから、写真を転載させていただきました。飾りひょうたんの写真は千葉県成田市の藤倉商店ホームページから転載させていただきました。


転載を承認してくださった各位のご厚意にあつくお礼申し上げます。

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