瓜見の茶屋・桂離宮
 
千年の古都、京都。平安京の昔から近代に至るまでの名所旧跡が多く、誰もが憧れる所です。でも、その数々の名所旧跡は、東山の麓や市街の北または北西の嵯峨(さが)・嵐山方面に多く、南西部には少ないのです。その南西部の平坦地は桂川が運んできた肥沃な土が広がって、昔からシロウリの栽培が盛んに行われてきました。
この畑の広がる桂川沿いの一郭に、日本美の極致といわれる建築物と庭園を配する別天地があります。桂離宮(かつらりきゅう)です。桂離宮はシロウリと深いつながりをもっています。

豊臣秀吉
桂離宮とシロウリとの関係を言うには、ある高貴な人物のお話をしなければなりません。その人とは智仁親王(としひとしんのう)。桂離宮の創設者です。

智仁親王は第百七代・後陽成(ごようぜい)天皇の弟。幼いときから聡明な宮様でした。時は戦国時代の終わりごろ。織田信長が斃れ、豊臣秀吉が覇者となるころです。

秀吉が大坂城内に山里廓(やまざとくるわ)と称する一郭を設け小さい茶室を建てた、という話が宮様のお耳に入りました。宮様は和歌の師・細川幽斎(ほそかわゆうさい)に山里廓の意味をお尋ねになりま

智仁親王・桂離宮造営関連年表

西暦 和暦 条宮家の事蹟と当時の出来事
1579 天正7年  1月8日 智仁親王誕生
1582   10年  本能寺の変・山崎の合戦
1585   13年  羽柴秀吉、関白となる
1586   14年  1月、秀吉の猶子となる
 7月、父・誠仁親王死去

 11月、正親町天皇譲位、後陽成天皇即位
 12月、秀吉、豊臣姓を賜る
1589   17年  秀吉の子・鶴松誕生、秀吉の猶子解消
1590   18年  八条宮家を創立
1591   19年  智仁親王、親王宣下、式部卿就任
 8月、鶴松死去 12月、秀吉太閤となる
1598 慶長 3年  8月、豊臣秀吉死去
1600    5年  9月、関ヶ原の戦 細川幽斎から古今伝授
1611   16年  後陽成天皇退位、後水尾天皇即位
1615   20年  大坂夏の陣・豊臣氏滅ぶ
1619 元和 5年  11月1日、智忠親王誕生
1620    6年  桂離宮造営開始、 徳川秀忠の娘和子入内
1623     9年  徳川家光、将軍となる
1625 寛永 2年 桂離宮第1期造営成る 後水尾天皇に古今伝授
1626     3年  智忠親王、親王宣下
1629     6年  4月7日、智仁親王薨去 51歳
 後水尾天皇退位 明正天皇即位
1634    11年  家光、日光東照宮を大造営 36年完工
1642     19年  智忠親王、桂離宮第2期造営を計画
1649 慶安 2年  桂離宮第2期造営成る
1655 明暦元年  後水尾上皇修学院離宮造営開始、 63年完工
1662 寛文 2年  7月、智忠親王薨去 44歳
す。

幽斎は、これが左の藤原家隆(ふじわらのいえたか)の歌に由来すること、この歌の心が侘びの極致であり、真の文化は華美よりも自然の清明さにあること、を教えました。

この話が智仁親王終生の信条になったようです。

幼い宮様は、関白となった秀吉の懇望によって秀吉の猶子(ゆうし)となりました。しかし、秀吉の子・鶴松が生まれたので猶子の縁は解消され、新たに八条宮家を創立して親王となります。


親王が20歳の年、秀吉が死去し、その2年後の関ヶ原の戦で政権は徳川家に移ります。

豊臣びいきの後陽成天皇は智仁親王に皇位を譲ろうとされましたが、徳川方から「一度秀吉の猶子となった宮になど、もってのほか」と猛反対。後陽成天皇は仕方なく、10年後、子の後水尾天皇に譲位されました。
智仁親王系図

「秀吉の死とともに王朝の灯も消えたか」

徳川氏に失望した智仁親王は、王朝の風雅を友として生きようと志されました。

幼いとき山里の歌の話を聞いた宮様は、華美な花よりも野の自然を愛し、田畑に育つ緑の美しさを好まれました。

とくに桂川の両側に広がる瓜畑を眺め愛でるのがお好きで、世間から
瓜見の宮と呼ばれていました。「智仁親王御年暦」には右下のような記録が残っています。

そして、都の南西のここ下桂村(しもかつらむら)の地に、お供衆と共に瓜畑を見渡しながら休息するための軽やかな庭付きの茶屋をお建てになりました。建物や規模は次第に増やされましたが、華美を避け、簡素清明を旨とされました。ひとまずの完成を見てまもなく智仁親王は亡くなります。

子の智忠(としただ)親王は父・智仁親王の遺志を継ぎ、夫人の実家・加賀前田家の援助も受け、年月をかけてこの別荘を完成されました。今に残る桂離宮です。同じころ、徳川三代将軍家光は、幕府の権力を基に、莫大な金銀と物資を投入して豪華絢爛の日光東照宮をわずか2年で造営しました。

日本美を代表する双璧、
桂離宮の自然的清雅東照宮の人工的華麗、いずれを美しいと感じるかは見る人の品性によって異なりましょう。

智仁親王御年暦記録
八条宮家はその後宮号を代え、最後は桂宮家として存続しましたが、明治14年(1881年)に途絶えました。以後、この桂宮家の別荘は皇室の離宮となりました。

昭和8年(1933年)ナチスに追われて日本に亡命したドイツの著名な建築家・ブルーノ・タウトは、桂離宮を見てその美しさを激賞し涙を流したといわれます。

外国人の眼で見てもなお、何が日本の真の美であるかを示す話として語り継がれています。

作家・司馬遼太郎は、昭和46年(1971年)に短編小説集「豊臣家の人々」を出版しました。

それには、豊臣家につながる人々がそれぞれの能力を超える権力の重圧に対応できず押し潰されていったなかに、ひとり八条宮だけが穏やかに世の移り変わりを見据え、この新しい時代と環境を堪能したと書いています。多少の誤記もありフィクションも交えられていますが、八条宮智仁親王の心情が見事に表現されています。

 
現 代 の 桂 離 宮
    御 幸 門(宮内庁)

    御 殿(宮内庁)

    松 琴 亭(宮内庁)

 松琴亭から見る庭園(川崎氏)
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    月 波 楼(宮内庁)

    笑 意 軒(川崎氏)


日光東照宮陽明門
 <ことば豆辞典>

細川幽斎
 名は藤孝。元は足利将軍の重臣。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた。儀礼や文芸に精通した武将。子孫は肥後54万石を領した。
藤原家隆】 鎌倉時代初期の公卿・歌人。藤原俊成に歌を習い、新古今和歌集の選者に選ばれ、藤原定家と歌の双璧といわれた。晩年従二位に至る。
【猶 子】 
親族や他人の子と親子関係を結ぶ制度、及びその子。貴族社会で行われた。養子と似るが、養父と同居せず養父の姓を名乗らないことが多い。

【誠仁
(さねひと)親王】 正親町(おおぎまち)天皇の皇子。後陽成天皇と智仁親王の父。35歳で死去。
【古今伝授】 
古今和歌集の語句の解釈に関する秘説などを特定の人に伝えること。
【川勝寺】 
桂離宮から桂川を隔てた東岸一帯の地名。古くは寺があったのだろうが、この付近の地名は葛野郡(かどのぐん)川勝寺村で、シロウリの産地。その後合併により京極村。昭和6年から京都市右京区西京極の一部。

 
シロウリの大型品種
桂 大 白 瓜
黒 門 青 大 縞 瓜
シロウリの中小型品種
さ ぬ き 白 瓜
沼 目 白 瓜
阿波みどり越瓜

シロウリは漢字で白瓜と書いたりしますが、正しくは越瓜と書きます。

シロウリ・マクワウリ・メロンの類の原産地はアフリカ。

太古に中国に伝わり、中国の揚子江より南にあった越(えつ)国で甘みのない系統ができました。それで越瓜と書くのだそうです。

果実が熟すると白っぽくなるので、日本ではシロウリと呼ぶようになりました。

日本へは有史以前に渡来し、漬物や生食のほか、塩をまぶして乾燥した干し瓜として保存食にもしました。

後から渡来したキュウリは苦味があり、賎民の食べる野菜で、シロウリは上流階級の野菜でした。

現在では、その後に品種改良されたキュウリがもっぱら生食され、シロウリは漬物用が主体になっています。

さぬき白瓜沼目白瓜などの小型品種は主に浅漬用に、大型品種は主に奈良漬用に使われます。桂大白瓜の奈良漬は最高級品として扱われているようです。

シロウリは植物分類上メロンやマクワウリと同じ種(しゅ)で、その中の一つの変種とされています。その変種名はvar. Conomon といいます。

安永4年(1775年)オランダ商館の医師として日本に来たスエーデンの植物学者ツンベルクは、宿で出された漬物を見て「これはいかなる植物の果実か」と宿の給仕女に尋ねました。

女が「香の物」と答えると、ツンベルクは早速栽培している畑へ案内させ、新種の植物として、宿の女の言葉をとって
Conomon と命名しました。



このページの作成に当たっては、宮内庁川崎秀典氏から桂離宮の写真の転載をお許しいただきました。また、シロウリの品種の写真をタキイ種苗株式会社から、各種文様の画像を綺陽堂の素材集から転載させていただきました。各位のご厚意にあつくお礼申し上げます。 



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