京の瓜生石
瓜生石って何でしょう?瓜生石うりゅうせきともがしょうせきとも読むそうです。でもチューさんの子供のとき、まわりの人々はうりゅういしと呼んでいました。それは京都市東山区にある知恩院という大きなお寺の門前の道路に、昔から埋まっている石の名前です。三叉路の真ん中にあって、交通の邪魔になっていると思うのですが、だれも掘り起こして除けようとは言いません。瓜という字があるのは、野菜に関係があるからです。どの瓜でしょう?


瓜生石のあり場所
瓜生石のある場所を見てみましょう。左の地図のように、古門前(ふるもんぜん)通りの東端、知恩院の北の入り口・黒門の前の道路上に下の写真のように埋まり、周囲は石柵に囲まれています。

昔は周りの石柵の範囲がもっと広かったように思います。石はほとんどが地下に埋まっているように見えて、地上に出ているのは高いところで25センチくらい、横幅2メートル以内です。

岩石研究者の説明では、

瓜生石本体はやや白〜灰色のチャートの層を含んだ複合岩体で,接触変成岩のようである。チャートと石灰岩が熱によって複合的にからみあった状態になっているもの。石英脈のように見える脈がはいり,珪灰石(けいかいせき)のような組織がみえる」

とのことです。チューさんが子供のとき周りの人から聞いた話では、この石は大昔に宇宙から落ちてきた隕石(いんせき)だということでした。

瓜生石を囲む石柵 瓜生石近写

 <ことば豆辞典> その一

【チャート】 珪酸質の堆積岩の一種。きめ細かく非常に硬い。光沢あり赤褐色または薄黒いものが多い。
【接触変成岩変成岩の一種。地下深いところから上昇した高温のマグマが接触したために、熱を受けて成分や組織・構造が変化した岩石。
【珪灰石】
カルシウムの珪酸塩鉱物。光沢があり、熱変性作用を受けた石灰岩などの中にできる。



牛頭天王像
この瓜生石は、知恩院の創建より以前からこの地にあったといわれています。知恩院の開山は法然上人(ほうねんしょうにん)ですが、事実上の開創は文暦(ぶんりゃく)2年(1234年)だそうです。瓜生石がそれより前からあったとはずいぶん昔のことです。

伝説によると,はるか昔、この石の上キュウリが芽生え、一夜のうちにつるが伸びて花が咲き実がなって、その上に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の守護神・牛頭天王(ごずてんのう)が降り立ち給い、果実の表面に牛頭天王の文字が現れたといいます。

それは貞観(じょうがん)2年(860年)6月14日の深夜のことで,その後牛頭天王の神霊は今の粟田神社の場所に移られたともいわれています。

また、この瓜生石は頂部ごくわずかが地表に出ているだけで、地下は地球の深部までとどいているとか、石の下に二条城までつづく抜け道があるとか、さまざまに言い伝えられています。ほんとに不思議な石です。


貞観2年は平安時代の前期に当たります。このころ、このあたりには藤原氏の別荘があったと伝えられています。

その後まもなく、時の権力者・藤原基経(もとつね)はこの別荘地をインドの祇園精舎になぞらえた仏道修行場に造り替え、以後このあたりを祇園(ぎおん)と呼ぶようになりました
野菜昔ばなし第三話ことば豆辞典参照)

この地に祇園精舎に倣った修行場が設けられたのは、きっとこの瓜生石に牛頭天王が降臨されたことによるのでしょう。


八坂神社本殿
粟田神社本殿
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そしてこの祇園の地に牛頭天王を祭る社(やしろ)ができ、祇園感神院(ぎおんかんじんいん)と名づけられました。

また、牛頭天王の霊が移られた場所には祇園感神院新宮が設けられました。祇園感神院が八坂神社、祇園感神院新宮が粟田神社と改称されたのは明治時代になってからです。

両社とも主たるご祭神は素戔鳴尊(すさのおのみこと)ですが、怖いお顔で悪霊たちを追い払われる牛頭天王が、姿を変えて日本に出現されたのが神代の荒ぶる神・素戔鳴尊なのだといわれています。

ですから、有名な京都の祇園祭も、粟田神社の祭礼も、実は牛頭天王に厄を払ってもらうために行われているのだと思います。


 <ことば豆辞典> その二

【法然上人】 1133-1212浄土宗の開祖。名は源空。美作(みまさか・今の岡山県北部)の人。父の遺言で出家。叡山で修行後43歳のとき専修念仏に帰し、京都東山吉水で浄土法門を説く。旧仏教の圧迫を受けて讃岐(今の香川県)へ流されたが、許されて4年後に京都に帰る。
【祇園精舎】 祇園は祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)の略。古代インド舎衛国にあった祇陀太子(ぎだたいし)の樹林地を、給孤独の異名を持つ須達長者(しゅだつちょうじゃ)が買取り、堂塔を建ててお釈迦様に寄進した。ここを祇園精舎という。
【藤原基経】 平安前期の政治権力者。摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)を歴任。陽成天皇を廃して光孝天皇を立てた。



粟田神社の瓜巴鉾
野菜を研究しているチューさんにとっては、瓜生石に生えたのがシロウリやマクワウリではなくキュウリだった、というのがとても興味深いのです。

シロウリやマクワウリは弥生(やよい)時代にすでに日本にあり、キュウリも奈良時代前後に渡来している
野菜はどこから来たの?参照)ので、どちらがに生えたとしても歴史的に間違いではありません。

でも、当時は果実に強い苦味があるために穢れた野菜として貧しい人々の食べ物であったキュウリが瓜生石に生えたのは、キュウリがインド北東部からネパールにかけての地域原産の野菜だからだと思います。シロウリもインド原産説が一部にありますが、インドより西の地域からエジプトにかけてが原産地との説が主流です。

インドの神・牛頭天王が降臨されるには、やはりインド原産の野菜・キュウリの上でなければならなかったのでしょう。

現在では、瓜生石と関係が深いのは粟田神社のようです。粟田神社の祭礼は十月に行われますが、初日の夜、夜渡り神事の行列が瓜生石に向かいます。

石のそばで神社の神職と知恩院の僧職が向かいあって瓜生石に祝詞とお経をあげ行列も加わって石の周りを回ります。

明治維新ごろまでは、瓜生石の上まで神輿(みこし)をかついで行き,石の上に置いていたそうです。粟田祭は多くの美しい剣鉾(けんぼこ)で有名ですが、その中に瓜巴鉾(うりともえぼこ)と呼ばれているのがあり、木瓜(もっこう)三つ巴(ともえ)を飾りとしています。木瓜紋と三つ巴紋は粟田神社・八坂神社共通の神紋(しんもん)です。



キュウリ未熟果
の断面
三つ瓜三つ唐花 四方瓜に花角
(四方木瓜)
五瓜に唐花
(五葉木瓜)
八坂神社の神紋

では、木瓜とは何か?。木瓜がなにをかたどったものかは紋章の専門家でも確定していないようです。主な説は次の3つでしょう。
キュウリ果実の切り口  地上に造られた鳥の巣  ボケの果実の切り口

このうちA説とB説が有力ですが、どちらかと言うより双方から木瓜紋ができたのかも知れません。キュウリの果実の断面は3胎座(たいざ)なので、三つ瓜三つ唐花(からはな)が木瓜紋の基本型だろうとチューさんは考えています。
  <ことば豆辞典> その三

【神紋】 神社の紋章。
【胎座】 花のめしべの子房(しぼう)の中で胚珠(はいしゅ)が着いている組織。胎座には幾つもの型があり、植物の種類によって定まっている。



瓜生石のある場所はチューさんの実家からかなり遠い(野菜こぼれ話第二話 参照)のですが、 子供のころによく行きました。それにはわけがあります。

昭和8年ごろ、京都市は、夏休みの間に子供たちが早起きして神社やお寺にお参りするような企画を立て、参拝した子供に印を押すよう社寺に呼びかけました。各社寺は大人向けの朱印とは別に子供向きのゴム印を作りました。

俄然、子供たちの間にスタンプブームが起こり、美しい印判を持つ社寺に人気が出ます。当時幼稚園から小学校低学年だったチ
良正院本堂 「戦友」の歌碑
ューさんもこの行事に参加しました。

瓜生石の北側に良正院(りょうしょういん)という浄土宗のお寺があります。

このお寺の印判はとくに美しく、印影の中に「ここはお国を何百里」と彫った碑(いしぶみ)のあるのが良かったのです。

毎日のように良正院で印を押してもらい、門前に埋まっている瓜生石を眺めて歩いた日を思い出します。


良正院とはもともと徳川家康の娘・督姫(とくひめ)の院号で、このお寺は、督姫の子の岡山藩主・池田忠雄(いけだただかつ)が、母の菩提(ぼだい)を弔うため寛永8年(1631年)に建立したと伝わっています。

良正院のスタンプ(昭和11年)
チューさんは大人になってから、招かれてこのお寺の本堂に上がったことがあります。中はお寺の本堂というよりも立派な大広間という感じがしました。

ここはお国を何百里の碑は今も門の外に建っています。これは戦友(せんゆう)」という歌の歌い出しの言葉です。作詞者の真下飛泉(ましもひせん)がこのお寺に寄宿していた縁で、昭和2年(1927年)にここに建てられました。

戦友は14番まである長い詩に三善和氣(みよしわけ・みよしかずおき)が作曲した歌で、碑の文字は明治のベストセラー「肉弾」の著者・桜井忠温(さくらいただよし)の書を彫ったものです。

第二次大戦終戦後、碑の歌詞が軍国調であるとしてアメリカ占領軍よりこの碑の破壊を命ぜられましたが、当時の良正院住職・細井照道師の懸命の努力により守られました。

  
唱歌「戦友」の解説と全歌詞は    こちら
 <ことば豆辞典> その四

督 姫 1565-1615。 徳川家康の娘。はじめ北条氏直に嫁すが、北条氏滅亡ののち池田輝政に再嫁。姫路城で死去。享年51歳。
【真下飛泉】 1878-1926。本名は龍吉。教育者・詩人。京都府河守町(現・福知山市大江町河守)出身。京都師範学校卒。附属小学校訓導、京都市修道・尚徳・成徳の各学校長を歴任。このころ多くの教育論文を発表し京都市の教育の推進力となる。かたわら詩歌を与謝野鉄幹に師事「戦友」の作詩は27歳のとき。のち京都市会議員となる。48歳で死去。

【三善和氣】 1881-1963。作曲家・ピアニスト。「戦友」作曲時は京都市立第五高等小学校の音楽教師で20歳。大正5年(1916年)宝塚歌劇団にピアニストとして招かれ、作曲、指揮者としても活躍した。
【桜井忠温】 1879-1965。軍人・文筆家。愛媛県松山市出身。陸軍士官学校卒。連隊旗手として日露戦争に出征。旅順攻防戦で重傷を負う。帰還後、戦記「肉弾」を出版、戦記文学として大ベストセラーとなる。さらに15ヶ国語に翻訳され世界的ベストセラーにもなり、ドイツ皇帝やアメリカ大統領にも賞賛された。陸軍少将で退役。文筆活動を続けた。



     キュウリの古い品種  
相模半白 霜知らず地這 余蒔(よまき)
加賀青長節成 四葉(すうよう) 聖護院青長節成
江戸時代のキュウリ
キュウリの完熟果
瓜生石に一夜で生えたキュウリはどんな形をしていたのでしょうか? 

キュウリは原産地のインドからユーラシア大陸全体に伝わりましたが、ヨーロッパではあまり発展しませんでした。中国へは西域を迂回して伝えられたので胡瓜と名づけられましたが、あとで黄瓜と字が変えられました。

日本名はこの黄瓜の訓読みで、以前はかな書きでもキウリと書いていました。現在売られているキュウリは濃い緑色をしていますが、これは開花後10日以内に収穫する未熟果だからで、キュウリの完熟果は右の写真のように大きく、黄色になります。キュウリの名前はこの完熟果の色に由来しています。

キュウリは、日本では永い間身分の卑しい人々の食べる野菜とさげすまれながらも、日本各地に広がってさまざまな品種ができました。一般に普及しだしたのは江戸時代後半からのようで、明治・大正期になっても生産量はナスの3割くらいでした。昭和戦前期の生産額順位は、野菜の横綱はだれ?でご覧ください。

戦後、
キュウリは、生食できること、大きさが手ごろなこと、洋食和食どちらにも向くこと、品種改良の成果によって苦味がなくなったこと、成長が早く栽培しやすいこと、などの利点が幸いして、トップクラスの生産額を誇る野菜になりました。

 <ことば豆辞典> その五

【地這(じばい) 支柱を立てずに茎を土面に這わせて栽培すること。また、その栽培法に適した品種。キュウリでは遅まきの品種。
【余蒔】 タネを遅くまくこと。また、遅まきに適した品種。
【節成(ふしなり)茎の節ごとに雌花が着いて結実すること。節ごとに雌花が着生しないものを飛び節という。節成性は遺伝形質だが環境の影響も受ける。



さて、瓜生石は遠い昔からここにあり、神仏信仰と深いかかわりがあるので、これからもこの場所に存在し続けるでしょうが、この石にキュウリが芽生えて花が咲き実のなることが再びあるのでしょうか?



 このページの制作に当たっては、京都・粟田神社 からご本殿と剣鉾の写真の特別提供を受けました。また、瓜生石の写真を 旅から旅の着物のお話 から、「ここはお国を何百里」の歌碑の写真を 旅おりおり から、転載させていただきました。キュウリの古い品種の写真はタキイ種苗株式会社の品種カタログからお借りしました。各位のご厚意にあつくお礼申し上げます。

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