野菜・昔ばなし

 

ユウガオの花
                  第五話 夕顔一夜花
これは平安時代の中頃に紫式部(むらさきしきぶ)が著わした長編小説・源氏物語(げんじものがたり)第四帖「夕顔」のお話です。有名な場面ですからご存知の方も多いでしょう。物語に登場する数多い女性の中でも、夕顔の女は美しく、はかなく、それだけに若い光源氏(ひかるげんじ)がこよなく愛した女性です。それが野菜とどのようなつながりを持つのでしょうか。・・・


このころ、若い光源氏は六条に住む貴婦人・六条御息所
(ろくじょうのみやすどころ)に通っていました。ある日、途中の五条で、病気中の乳母を見舞いました。門が開くのを待つ間、隣家の塀に絡まったつるに白い花が美しく咲いているのを見ました。源氏が家の中の女性に花のことを尋ねようとすると、お供の御随身(みずいじん)が、

 「あの白く咲いている花は夕顔と申します。花の名は人のようで、垣根などに咲くものでございます」

と説明しました。御随身が花をひとつ折り取ると、この家の女人は女童(おんなわらわ)に香をたきしめた扇を持たせ、御随身がこの扇の上に花を乗せて源氏に差し出しました。源氏が乳母の家で扇を見ると、美しい筆跡で左下のような和歌が書いてありました。歌の意味は、

   
「多分、光源氏様かとお見受けします。夕顔の花が白露と源氏様の光で輝いています」

ということです。隣家の女性は花を求めた貴人が光源氏だと知っていたのです。源氏は強く心を打たれ、すぐに返歌を贈りました。右下の歌です。歌意は、

   
「近寄って確かめてください。夕暮れにぼんやりと見た美しい夕顔を」

ということでしょう。長編・源氏物語のなかでも、とくに情緒あふれる歌の贈答場面です。

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夕顔の女の家を見る光源氏

この歌の贈答をきっかけに、光源氏は素性も知らぬ夕顔の女に通い溺愛(できあい)します。ところが中秋の名月の夜の明け方、夕顔の女を別の邸宅に連れ出したとき、得体の知れぬ物の怪(け)が現われて夕顔の女を取り殺すという悲劇が起こります。時に光源氏十七歳、衝撃と悲しみのあまり重い病に臥してしまうのでした。

のちに源氏は夕顔の女の侍女から、彼女には前に通っていた頭中将(とうのちゅうじょう)の間に女児があることを聞きます。この女児はいったん乳母に連れられて九州に行きますが、後年不思議な縁で源氏に引き取られて養女となり、物語の後半の重要人物・玉鬘(たまかずら)となるのです。
 <ことば豆辞典>

夕顔塚(京都市下京区)
御息所(みやすどころ) 天皇や東宮(皇太子)の妃の敬称。六条御息所は東宮妃だったが、東宮が若くして亡くなり、源氏が通っていたころは若い未亡人になっていた。
御随身】
 随身(ずいじん)の丁寧語。随身は、武装して貴人に付き従い警護を担当した役人。貴人の身分によって人数が決まっていて、このときの源氏の随身は4人。
【頭中将】 本来は近衛(このえ)中将で蔵人頭(くろうどのとう・蔵人所の長官)に補せられた人の役職名だが、このお話では光源氏の正妻・葵(あおい)の上の兄を指す。夕顔の女の親も近衛中将だったが早く亡くなり、この時は頭中将の妻の嫉妬を恐れて身を隠していた。
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源氏物語は小説ですから、光源氏も夕顔の女も、誰かをモデルとしていたとしても物語のなかの架空の人物です。ところが、京都市下京区の堺町通松原上ルに夕顔町という町名が今も存在し、その町内の民家の一角に、夕顔塚と称するかなり古い石塔(せきとう)が建っています。

この石塔は、上半部が宝篋印塔(ほうきょういんとう)、下半部は五輪塔(ごりんとう)の形になっています。これが本当に夕顔の女の墓か否かはさておいて、やはり京都は千年の古都、こんなお墓があっても不思議に思わないのが不思議ですね。


丸ユウガオと長ユウガオ
ユウガオの原産地はインド・北アフリカ。ウリ科の一年草で、つるを伸ばして広がり、夏の夕方に白い大きな花を開きます。花の寿命は一夜だけで、受精すれば果実が発育を始めます。果実の形によって、長ユウガオ丸ユウガオに分けられます。

日本へは、太古に中国から朝鮮半島を経て渡来しました。ヒョウタンと同じ種類で、俗に「花は夕顔,実(み)は瓢箪(ひょうたん)」といわれています。平安時代には、花は観賞用に、果実は加工して容器にするために栽培していました。

 源氏物語より前に、
清少納言(せいしょうなごん)は著書・枕草子(まくらのそうし)の中で、

「夕顔は、あさがほに似て言ひつづけたる、をかしかりぬべき花の姿にて、にくく、実のありさまこそいとくちをしけれ」

(夕顔は朝顔に似ていると言い続けている。だから花の姿は面白い。それに反して、実の格好の悪さは本当に残念だ)

と書いています。この時代のユウガオは果実に苦味があったので、野菜として食べることはほとんどなかったようです。

収穫時のユウガオ
ユウガオの中果皮を剥く
中世以後に苦味のない丸ユウガオの品種が入ってきて、干瓢(かんぴょう)の原料野菜としての栽培が関西から始まります。干瓢は、ユウガオの果実が完熟する前、果重が4〜6キログラムになったころに収穫し(右上の写真)、機械で回転させて中果皮をうすく剥き(右下の写真)、陽に干して乾燥させたものです。

干瓢用のユウガオの栽培は、現在栃木県に集中していますが、これは正徳元年(1711年)に近江(おうみ、現・滋賀県)水口(みなくち)藩主・鳥居忠英(とりいただてる)が下野(しもつけ、現・栃木県)壬生(みぶ)へ国替えになって移り、翌年にタネや栽培法を水口から持ち込んだものです。
センナリヒョウタン

干瓢の生産は栃木県が本場ですが、消費は関西が最も多いようです。このほか、ユウガオの1変種のセンナリヒョウタンも、ごく若い果実を煮物や奈良漬にして食べます。また、ユウガオは、スイカの接木苗の台木としても使われています。

ユウガオの花の観賞は後世まで続き、庭に作った夕顔棚の下で夏の夕方のひと時を楽しんでいる江戸時代の絵画などが残っています。


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源氏物語は日本古典文学の華とたたえられ、以後の文学・芸術に大きな影響を与えました。今でも多くの有名作家による現代語訳が出版されています。しかし、単に物語の筋書きを知るだけでは、この作品の良さを充分に味わえません。

筆者は、この物語の真髄は随所にちりばめられた和歌にあると思っています。巻名も多くはその中の歌から採られています。 登場する多くの野菜たちも、そのほとんどが和歌に詠み込まれて、この物語の彩りに大きな役割を果たしているのです。

このページの作成に当たっては、干瓢作りの写真を栃木県壬生町から、ユウガオの花の写真を同町の島田計二商店から、夕顔塚の写真を京都市河原町グリーン商店街の有限会社サンコー出版から、それぞれご承認を得て転載させていただきました。各位のご厚意にあつく御礼申し上げます。



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