野菜・昔ばなし


                    第六話 五条の若菜
百人一首・光孝天皇これは大和物語(やまとものがたり) にあるお話です。大和物語は伊勢物語と同じ歌物語集で、いくつもの短編からできています。五条の若菜はこの物語の最後を飾る百七十三段目のかなり長いお話です。

大和物語が作られたのは951年ごろと伝えられていますが、このころは平安京(今の京都市) 建都から100年余りを経て、都の整備が進み、各種の制度も整いました。また、藤原氏が政治権力を握り、貴族階級の序列も定まりました。

和歌を中心とする文化も貴族階級のものになってしまって、萬葉集(まんようしゅう)のころの庶民性は失われ、題材も花鳥風月や恋愛に型が決まり、野菜などの食べ物を描写するのは卑しめられたようです。そのせいか、このころに書かれた竹取物語伊勢物語には野菜はひとつも登場しません。


しかしこの時代でも、若菜だけはめでたいものとして歌に詠まれ物語に現われます。若菜はお正月だけではなく、四十歳からの長寿の祝などにも「若菜まゐる」という祝賀行事が行われました。この行事の記述はいくつもの古典文学に見られます。源氏物語「若菜」上下巻はその代表でしょう。でもこの大和物語のお話はそんなお祝い事ではありません。

         
僧正遍昭系図
百人一首・僧正遍昭
百人一首で有名な六歌仙(ろっかせん)のひとりの
僧正遍昭(そうじょうへんじょう) がまだ近衛少将(このえしょうしょう)・良岑宗貞(よしみねのむねさだ) として天皇に仕えていたころ。

早春のある日の夕方、外出中に雨が降り始め、五条のある家の門で雨宿りしていました。雨脚が強くなったので、従者ひとりを残してほかの者たちを帰らせ、門から中に入って声を掛けたが返事がありません。

庭は広く梅が美しく咲いているが、家はたいそう古びている様子。さらに奥へ入っていくと、御簾(みす)の中に若い女性がひとり歌を詠んでいます。見知らぬ男の姿を見て驚きましたが、縁側に上がった宗貞のために敷物を差し出しました。

日が暮れても雨は降りやまず、縁側は雨漏りがひどくなったので、宗貞は従者を別の場所へ行かせ、自身は御簾の間から部屋の中に入りました。女は困って奥へ入ろうとしましたが、宗貞は和歌や話の相手をしてくださいと頼みました。


雨は一晩中降り続き、翌朝少し晴れてきました。女の両親は宗貞に何か食べ物をと思いましたが、昔はともかく今は貧しくなって自分たちの食べ物にも事欠くような暮らしでもあり、それに突然の客なのでどうしようもなく、庭に生えている若菜を摘み集めて蒸し物にし、お椀に盛って差し出しました。

お箸は梅の小枝で作ってあって、それに右下の歌が添えられていました。宗貞はこれを見てこの家の状況を察し、お椀を引き寄せて若菜の蒸し物を食べました。女は恥ずかしさのあまりに顔を伏せたままでした。


良岑宗貞と五条の女

少将は従者を邸に帰らせて、食べ物や当座に必要な品々を持ってこさせ、この家に贈りました。帰宅してからもときどき五条の女の家を訪れて、さまざまな品物を届けました。身分がら美味しいものを食べる機会も多くありましたが、何を食べても、五条の女の家でのめずらしく美味しい若菜の味を忘れることはありませんでした。

お仕えしていた仁明(にんみょう)天皇が亡くなられた時、良岑宗貞も35歳で出家して法師となり、のちに僧正(そうじょう)の位に就きました。こうして僧正遍昭となってからも、五条の家に何かと用事を依頼して、この家を支え続けたということです。

御馳走(ごちそう)という言葉の本来の意味は、山海の珍味を指すのではなく、文字のとおり客の接待のために馳(は)せ走ることです。宗貞少将が美味と感じたのも、歌まで添えたその心尽くしの味だったのでしょう。


 
<ことば豆辞典>

【六歌仙
】 平安時代前期の有名歌人6人。僧正遍昭・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大伴黒主を指す。
【近衛少将】 奈良・平安時代以後皇居を警備し天皇の行幸に付き従った武官の役所が近衛府(このえふ)。少将は近衛府の次官。
【僧 正】
 僧侶の最高位。のちに大僧正など3階級に分かれた。
【仁明天皇
 第54代の天皇。生母は第一話の嘉智子皇后。(僧正遍昭との関係は系図参照)



[古典文学によく登場する食用野草(花を着けた姿)]
     
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ナズナ(薺) ハハコグサ(御形) コオニタビラコ(田平子)
ハコベ(繁縷.) ヨメナ(嫁菜・うはぎ) フキ(蕗)
このお話で若菜というのはどんな種類だったのでしょうか。

物語の中では書いてありませんが、今では雑草として扱われている
ナズナ・ハハコグサ・ハコベ・タビラコ・ヨメナなどだったと思います。自然に生えていたものに畑に植えて栽培していたのも加わっていたかも知れません。

若菜というのは時代によって種類に変遷があり、平安中期の貴族の祝い事に使われたのは(セリ)・(ナズナ)・(スズナ)・(アザミ)・(チサ)・(ワラビ)・(フユアオイ)・水蓼(ミズタデ)・(ヨモギ)・水寒(スイカン・海藻の1種)・(レイシ・霊芝)とこれら以外の1種、計12種だったといわれています。

これらが伝承される間に種類も変わって、現在の春の七草になりました(
野菜こぼれ話第六話・七草の歌・作者はだれ? 参照)。今は野草や山菜を材料にした摘草料理のお店もできています。

平安時代の貴族が、寝殿作りの邸宅に大きな池のある庭を持っていたことはよく知られています。しかしこれは表庭のことで、平安中期の中流貴族・慶滋保胤(よししげのやすたね)の随筆・池亭記(ちていき)には、貴族の邸の裏庭には広い菜園があって各種の野菜を栽培していた、と書いてあるそうです。

庭のない都の庶民は、鴨川の河原などを耕して野菜を作っていました。貴賎を問わず家庭菜園は昔からあったのですね。

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このお話の原題は「五条の女」といいます。平安時代の都の五条は今の京都市の松原通ですが、五条通や松原通は昔から繁華街でも高級住宅地でもなく、庶民の住む下町です。第五話の夕顔の女の住まいも五条でした。五条の女も、夕顔の女も、不幸せな境遇で荒れた家に住んでいました。「五条の女」が実話かどうかは分かりません。

でも、この界隈の女性は、昔も今も心温かく健気なのです。私事ながら、筆者も京都五条の生まれ育ち。家には5人の姉がいましたが、子育て最盛期や結婚適齢期が戦中戦後と重なって、幸せよりも苦労の多い人生でした。
大和物語の「五条の女」は筆者の姉たちへの思い出と重なっています。

 
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