野菜・昔ばなし

       第七話 大根の白腕
敗戦後の10年間、屈辱感・食糧難・生活苦で打ちひしがれていた日本は、昭和30年に転機を迎えました。この年は理想的な天候に恵まれ、当時GNP(国民総生産)の20パーセント近くを占めていた農業生産が飛躍的に伸び、経済全体に広がって好景気となりました。このときの景気を神武(じんむ)景気と呼び、その後の日本経済大発展の始まりとされています。国の財政も好転し、大幅減税が行われました。

神武景気とは詳しくは「神武以来の景気・仁徳以来の減税」ということなのです。神武とは日本最古の歴史書・古事記(こじき)と日本書紀(にほんしょき)に伝えられる日本初代の天皇の名。仁徳(にんとく)とは第16代の天皇の名。第七話はこの仁徳天皇
皇后・磐之媛(いわのひめ)
のお話です。


     
民のかまどの煙をご覧になる仁徳天皇

尋常小学国史・昭和13年版
より

磐之媛は葛城(かつらぎ)氏の出身。そのころ葛城氏は葛城山の東(現在の奈良県御所(ごぜ)市付近)を本拠とする大豪族でした。磐之媛は気性のしっかりした美貌の女性で、皇族以外から皇后となった最初の女性です。

仁徳天皇との仲むつまじく、4人の皇子の母となりました。そのうちの3人はのちに履仲(りちゅう)天皇反正(はんぜい)天皇允恭(いんぎょう)天皇としてそれぞれ皇位についています。

仁徳天皇は難波(なにわ)の高津宮(たかつのみや)に住まわれました。皇位についてまもなく、高殿から回りを見渡され、民家から立ち上る炊飯の煙が少ないことから民の生活が苦しいと察しられて、全国民の税や奉仕を3年間免除されました。

このために宮殿は荒れ宮廷の倉の蓄えも乏しくなりましたが、3年後に民のかまどの煙が多く立ち上るのを見て喜ばれたということです。
仁徳以来の減税」はこの故事に由来しています。

ハタケナ(畑菜)
このような善政を敷かれた天皇も、権力者の常として、次第に他の女性に気を移され始めます。

天皇は皇太子の時に日向国(ひゅうがのくに・今の宮崎県)から父・応神天皇に贈られた
髪長媛(かみながひめ)をねだってもらわれたことがありましたが、今度は吉備国(きびのくに・今の岡山県)の美女・黒媛(くろひめ)を呼び寄せて宮殿に入れられました。

しかし、黒媛は皇后を恐れて逃げ帰ってしまいましたので、天皇はあとを追って吉備国まで行かれました。黒媛はおもてなしの食べ物を作るため畑へ菜を摘みに行くと、天皇も同行されて歌をお詠みになりました

古代皇室系図
「山県(やまがた)に 蒔(ま)ける菘菜(あおな)も 吉備人と 共にし摘めば 楽しくもあるか」

     
(山の畑に作ってあった菜も、吉備の乙女と一緒に摘むと楽しいよ)

菘菜とは、当時すでに渡来して広く栽培されていたアブラナ科の野菜で、現在のハタケナの類のようです。でも天皇は磐之媛皇后を恋しく思われて、まもなく難波にお帰りになりました。

また天皇は、弟の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)から将来を頼まれていた異母妹の八田皇女(やたのひめみこ)を宮殿に入れたいと磐之媛皇后に話されましたが、皇后は反対されました。

ところが、皇后が儀式に使う葉を採りに紀国(きのくに・今の和歌山県)に出かけられている間に
八田皇女を宮殿にお入れになりました。

帰りの船中でこれを聞かれた磐之媛皇后は、高津宮へは戻らず、淀川から木津川をさかのぼって筒城(つつき・今の京都府綴喜郡)に着かれ、ここに宮殿を建ててお住まいになりました。これを聞かれた仁徳天皇は多くの従者を引き連れて筒城へ行き、皇后のお住まいの表に立って次のように歌われました。
    「つぎねふ 山背女(やましろめ)の 木鍬(こくわ)持ち 打ちし大根(おほね) 
     根白
(ねじろ)の白腕(しろただむき) 纏(ま)かずけばこそ 知らずとも言はめ」


この歌の意味は、

  「山城の国の女が木の鍬を使って育てたダイコン。その根の白さと同じ美しい白い腕で抱いてくれた仲ではないか」
この歌のメロディは、滝野氏制作

細道のMIDI倶楽部のページ
聴くことができます
     
平城山一帯地図
ということです。ほんとに率直でおおらかな表現ですね。

しかし
磐之媛皇后は難波へはお帰りにならず、筒城の宮にお住まいになって、数年後にこの地で亡くなられました。

古事記や日本書紀では、
磐之媛皇后を嫉妬深い女性と書いています。

でも、本当は聡明な方だったのではないでしょうか。長年連れ添った夫を、なおも心から愛し続けたいがゆえに、あえて天皇のお迎えを拒んで別居の道を選ばれたのでしょう。

磐之媛皇后は筒城の宮に移ってまもなく、山城(今の京都府南部)と大和(今の奈良県)の境の平城山(ならやま)に登り、奈良盆地のかなたに生まれ故郷の葛城山を望んで、若かったころを回想し、仁徳天皇への思慕を深められたとのことです。

磐之媛皇后陵 (ヒシアゲ古墳)
昭和9年、高知県宿毛(すくも)出身の歌人・北見志保子は、この平城山に立って磐之媛皇后を偲びつつ、自身のつらい恋と重ね合わせて数首の短歌を詠みました。

翌昭和10年、同じ高知県出身の平井康三郎はこの歌の二つを歌詞として曲を付け、歌曲「平城山」を発表しました。この歌は格調高い日本の歌曲として歌い継がれています。

平城山は京都府木津川市と奈良市にまたがる丘陵地で、現在は住宅地としての開発が進んでいますが、幾つもの陵墓や古墳があり、
磐之媛皇后もここに眠っておられます。

 
<ことば豆辞典>

古事記】 稗田阿礼が習い覚えた神代から推古天皇までの神話や伝説を712年に太安万侶が記録したわが国最初の歴史書。上中下3巻から成り、万葉仮名で記述。
【日本書紀】 720年に舎人(とねり)親王らが編纂した30巻の勅撰歴史書。神代から持統天皇までの記録を漢文で記述。

【難波】 今の大阪市とその周辺の古称。日本書紀によると、神武天皇御東征のときこの地の潮の流れが速かったので浪速(ナミハヤ)の国と名づけ、これが訛ってナニワと発音するようになったという。今では浪花と書くことが多い。
菟道稚郎子 仁徳天皇の異母弟。はじめ皇太子とされたが固辞し自害した。京都府宇治市に墓がある。

北見志保子 1885-1955。大正・昭和期の歌人。本名は川島朝野。高知県宿毛市出身。上京して結婚するが、若い学生と恋に落ちて夫と離婚し、若い恋人と再婚した。「平城山」に歌われる短歌は、前夫と別居中に奈良に旅したときの作とされる。
平井康三郎 1910-2002。昭和・平成期の作曲家。
本名は平井保喜(やすき)。高知県伊野町出身。東京音楽学校卒業。母校で教鞭を取る傍ら作曲活動を行い、「平城山」や「スキー」などを作曲。合唱連盟理事、日本音楽著作権協会理事、大阪音楽大学教授等を歴任。


青首ダイコンの代表品種
耐病総太り
ダイコンは日本の野菜の代表のような存在です。太古の時代に渡来して、永く栽培されて来ました。日本の風土に適応して野生化したものもあります。

長い年月の間に各地の気候風土に適応し、愛知県の守口ダイコンのように細長いものから鹿児島県の桜島ダイコン(
野菜こぼれ話第七話・桜島大根の釘隠し参照)のように丸い大型のものまで多くの品種ができました。生産額も栽培面積も最近まで野菜のトップを占めていました。まさに日本の野菜の代表といえましょう。

しかし重要なもの必ずしも尊重されるとは限らず、かえって日常的過ぎて有り難味を感じないことが多いものです。平安時代半ばに
清少納言(せいしょうなごん)が書いた枕草子(まくらのそうし)にも、

     「えせもののところ得るおりのこと 正月の大根(おほね)」

      
(つまらないものが幅を利かせるとき。正月のダイコン)

とあります。これは正月の歯固めの行事に使われたことを指しています。えせものとはひどい言い方だと思うのですが、その後も大根足とか大根役者などと良くない形容に使われています。

生食、煮物、漬物など広い用途があり、千切り干し大根は野菜の端境期(はざかいき)の栄養源となるなど、永く日本人の栄養を支えてくれたダイコンにわれわれはもっと感謝するべきではないでしょうか。

仁徳天皇のお歌のとおり、ダイコンの根の白さはほんとに美しいのです筆者もこのホームぺージの菜ってなんだ?のページの最初にダイコンの根の顕微鏡写真を載せています。細胞一つ一つが美しい白です。最近は全国的に青首長ダイコンばかりが出回って、地方の多くの品種の消滅が心配されています。

このページの磐之媛皇后陵の写真は 応請矩明氏 、青首ダイコンの写真は タキイ種苗株式会社 の各位のご厚意により掲載させていただきました。


  
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