野菜・昔ばなし

  コナギ     ミズアオイ
         第九話 水葵から錦
これは第四話と同じ宇治拾遺物語 (うじしゅういものがたり) にあるお話です。宇治拾遺物語の説話は今昔物語集 (こんじゃくものがたりしゅう) と同じものもありますが、話の始まりが教訓めいた内容のものでも、あとでお話の本筋が変わったり、笑い話になってしまったりするものが多いのです。この水葵 (みずあおい) のお話はその代表といえましょう。
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嵯峨広沢の池から仰ぐ愛宕山
昔々、清徳(せいとく)という僧が母親を亡くし、その亡骸(なきがら)の入った棺(ひつぎ)を都の北西にそびえる愛宕山(あたごやま)に担ぎ上げました。それから三年間、この山にこもって経文を唱え続けたところ、ほのかに母の声が聞こえました。

 「お前がありがたい経文を読み続けてくれたおかげで、今は仏になることができたよ」


この成仏(じょうぶつ)の知らせを聞いて、清徳は母の亡骸を焼き、骨を山に埋めて、京の都へ戻ることにしました。
 
西の京まで来て
ミズアオイを栽培している田の横を通りかかると、どういうわけか清徳はお腹が空いてたまらなくなりました。清徳は思わず田のふちのミズアオイを何本か食べてしまいました。

田の持ち主が近寄って見ると、まことに尊い顔をした坊さんが生のミズアオイを食べています。田の持ち主は大きな農家の主(あるじ)で大変信心深い人でした。

  「よほどお腹が空いておいでなのじゃな。どうぞ好きなだけ召しませ」


といいますと、
清徳

  「ありがたや」

と言って、飽きることなく三町歩(さんちょうぶ・3ヘクタール)もある田のミズアオイを全部食べてしまいました。農家の主は驚いて、

  
「しばらくここでお待ちくだされや。何か食べ物を作って進ぜましょう」

と言って急いで家へ戻り、白米一石(いっこく・150キログラム)を御飯に炊いて運んで来ました。
清徳はこれもみな食べてしまいました。清徳は

  「やれ、奇特なお方じゃ。ありがたや。長い間何も食べずにいたのですっかり頂戴しましたぞ」

     右大臣・藤原師輔
と礼を言って都の中へと向って行きました。

びっくり仰天、そら恐ろしくなったこの農家の主は、使用人を都の役所に走らせて、事の次第を届けました。これが時の右大臣 (うだいじん)・藤原師輔 (ふじわらのもろすけ) の知るところとなって、師輔はその僧を邸に連れてくるよう役人に命じました。

高殿(たかどの)に上って師輔が見ると、
清徳の後ろに数え切れないほどの餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・異形(いぎょう)の者が連なっているのが見えます。ところがほかの役人たちや町の人々には清徳ひとりしか見えません。

師輔は家来に命じて白米十石(1.5トン)を炊かせ、新しい筵 (むしろ) 何枚にも広げて与えました。すると師輔の眼には、
清徳は一口も食べず、後ろに従う異形の者たちが手を差し出してむさぼるように食べるのが見えました。

  「これぞまことの聖(ひじり)、仏が身を変えておいでなのか」


           清徳と後ろに従う異形者たち
と師輔は感じ入りましたが、他の者には清徳ひとりが食べているとばかりに見えたので、

  「あさましい坊さんじゃ!」

とあきれて見ていたそうです。

師輔の邸を出た
清徳の一行は街の中を進み、四条通のひとつ北の道へ入りました。

ここで清徳の後ろの者たちはミズアオイと御飯で膨れたお腹からいっせいに屎(くそ)をたれ、何処ともなく去って行きました。

真っ黒い屎がこの通りを覆ったので、町の人々は汚がって、この通りを屎の小路(こうじ)と呼ぶようになりました。

この話が広がって、ついに天皇の御耳にも入りました。天皇は御付きの者に申されました。

  「四条のひとつ南の通りは何というか?」

   「綾(あや)の小路と申しまする」

  「ならば、ひとつ北の通りを錦の小路と呼ぶように。今の名はあまりにも汚い」


綾に対する錦の名前。さすがにみやびな天皇様の御命名。このように勅命による道路名の変更でこの説話は終わっています。

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現在の錦通り
愛宕神社
この説話の原題は清徳聖奇特(せいとくひじりきどく)の事」といい、ミズアオイから始まったお話が、途中から道路名の変更の話題に変わっています。そしてこれが今の京都市の錦通りの名の由来と言われてきました。

でも、これは
宇治拾遺物語の作者がお話を面白くするために話の後半に付け加えたフィクションで、本当は具足を売る店が多かったので具足(ぐそく)小路と呼んでいたのを天喜二年(1054年)に後冷泉(ごれいぜい)天皇宣旨(せんじ)によって変えたとされています。とすると、師輔の時代から100年も後のことになりますね。

現在の京都の錦通りは、東は寺町から西は大宮通りの西まであります。このうち寺町から高倉通りまでの間は、狭い通りの両側に生鮮食品や加工食料品を売る有名店が軒を連ね、錦市場と呼ばれて、京都の人ばかりでなく観光客にもよく知られて毎日にぎわっています。

 <ことば豆辞典>

愛宕山】京都市の北西にある標高924メートルの山。昔から神仏習合の山岳修行霊場として名高く、天狗・太郎坊が住むという。現在山頂に愛宕神社があり、火伏せの神として庶民の信仰が厚い。
西の京】平安建都の始めは都の西半分を指したが、都の中心が次第に東に移り、西側は廃れて農地に戻るところが多かった。現在では京都市中京区の西部を西ノ京と呼ぶ。
藤原師輔】村上天皇の時代の右大臣。道長の祖父。人望厚く実力は兄の実頼(さねより)を凌いだ。[野菜・昔ばなし第八話]の藤原氏系図参照。

餓鬼】仏教でいう六道のひとつの餓鬼道に落ちた者。のどが細くて食べ物が通らず、常に飢えと渇きに苦しむという。
具足】仕事や生活に必要な道具や調度品のこと。鎧(よろい)兜(かぶと)などの武具も含む。
宣旨】天皇の命令を伝える公文書。
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ミズアオイ
コナギ
ミズアオイは湿地に生える水生一年草で、有史以前に稲作の始まりとともに中国南部から入ったとされています。ミズアオイに姿も性質もよく似たものにコナギがあります。大昔の人はこの2種を区別せず水葱 (なぎ) と呼んで、夏の野菜として食べていました。

苗を育て、5月ごろ水田に植えて花の咲かないうちに順次収穫しました。奈良時代以前から平安時代にかけて全国的に広く栽培され、主に(あつもの・
具の多い汁物)にして食べたようです。当時の夏の数少ない菜でした。乾かして貯蔵野菜にもしました。

萬葉集
(野菜昔ばなし第二話・幻術の瓜・ことば豆辞典その二 参照)には水葱を詠む歌がいくつもあります。鎌倉時代から次第に栽培が減りましたが、江戸時代まで栽培は続きました。

ミズアオイの花
明治以後は水田の雑草として、田の草取りの対象になってしまいました。戦時中の野菜の欠乏時に筆者も色々な雑草を食べましたが、ミズアオイコナギは食べていません。どんな味がするのでしょうか。

今は
ミズアオイコナギも水田で見ることはほとんどありません。除草剤に弱く、駆除されてしまったからです。

現在、
ミズアオイは野草の絶滅危惧種(ぜつめつきぐしゅ)に指定されています。両種とも増えすぎても困りますが、いつまでも残っていてほしいですね。よく見ると、ミズアオイの花はほんとに美しいのですよ。

このページの作成に当たっては、愛宕山と愛宕神社の写真を清水博一氏から、錦市場の写真を旅おりおりから、ミズアオイの株と花の写真をmizuaoiの植物記から、転載させていただきました。各位のご厚意にあつくお礼申し上げます。


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