野菜・昔ばなし

           
第十五話 くわい小町
楊貴妃
この世に人と生まれ来て、美しい容姿を望まぬ人はないでしょう。顔かたちは単に人を識別するだけのものではなく、その美醜は人の運命を大きく左右するものです。容貌の良し悪しで人を判断してはいけないとは言いながら、やはりそれに大きくとらわれるのが現実ではないでしょうか。

とくに女性にとっては、容姿の美しさが他の何よりも大切なものであったことは歴史が証明するところです。東洋では中国の楊貴妃
(ようきひ)西洋では
クレオパトラが、美女の双璧として昔から語り伝えられ、その美しい顔貌・容姿が少しでも劣っていたら、世界の歴史は変わっていただろうと言われています。

わが国でも美しい女性は古来数多く、それぞれに歴史を飾っていますが、日本最高の美女というと、やはり
小野小町(おののこまち)をおいてほかにはないでしょう。




小野小町は平安時代前期に宮中に仕えていた女性です。絶世の美女として名を残しているだけでなく、歌人としてもすぐれ、古今和歌集(野菜昔ばなし第十四話・恋忘れ草参照)に18首もの歌が入集していて、その序文の中で、選者・紀貫之(きのつらゆき)は、女性ならではのその歌いぶりを褒めています。

六歌仙のうちただ一人の女性、また後世、三十六歌仙としても名を連ねています。古今和歌集入集の歌はいずれも名歌として名高く、「花の色は・・・」の歌は、現代でも百人一首のなかでもっとも人気の高い一首です。


時代祭行列の
小野小町
このような事蹟からして、当然実在の人物であったはずですが、その生い立ちや生涯についてはほとんどわかっていません。

小野小町
の生誕地や終焉の地などと称する場所は、現在、北は青森県から南は宮崎県まで、実に28都府県にわたって存在します。そのうちで主流となっているのは、現在の秋田県湯沢市小野(旧雄勝郡雄勝町小野)の出身という説です。

この説によると、平安時代初期の政治家で歌人でもあった小野篁(おののたかむら)の子・小野良真(おののよしざね)が出羽(でわ)の国(現代の秋田県と山形県)の郡司(ぐんじ)となり、その赴任先で生まれた娘といわれます。

でも古代には、土地の美女を都に送り宮廷に仕えさせる慣わしがあったので、良真の実の娘であったかどうかもわかりません。

  <ことば豆辞典> その一

  【六歌仙】 古今和歌集の序文に論評された平安時代初期の6人の和歌の名人小野小町のほかは、在原業平・僧正遍昭・喜撰法師・文屋康秀・大伴黒主。
 【三十六歌仙】 平安時代中期に藤原公任が選んだ36人の代表的歌人

 【小野篁】
平安時代前期の官吏、学者、歌人。遣唐(けんとう)副使に任ぜられたとき、大使の専横を怒って命を奉ぜず、隠岐に流罪となるが、間もなく召還されて参議となる。博学ですぐれた詩文を残した。
昼は朝廷に仕え、夜は冥府に降って閻魔(えんま)大王に仕えたという伝説もある。
 【郡司】 古代の地方行政官。国司の下にあって郡を治めた。



尾形光琳筆・草紙洗小町図
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都に上った小町は、仁明(にんみょう)天皇更衣(こうい)として仕えたといわれます。しかしそのあまりの美貌に、天皇の子を宿すことを警戒した藤原氏一族が天皇から遠ざけるよう工作したようです。

後世に描かれた
小町の絵はほとんどが十二単衣(じゅうにひとえ)を着た姿ですが、当時の宮廷内女性の服装や髪型は、野菜昔ばなし第一話・芹摘みしに載せた嘉智子皇后のように大陸風だったといわれます。京都の時代祭行列ではそのような装束で登場します。

仁明天皇の没後、
小町は言い寄る数多の貴族たちには目もくれず、幾つものすぐれた歌を残して宮廷を去り、故郷に帰って晩年を過ごしたとされています。しかし宮廷を去ったのちの様子については根拠になる記録はなく、そのために多くの小町伝説が生まれ、後世の幾多の物語に語られるようになりました。

  <ことば豆辞典> その二

  【仁明天皇】 810~850。平安時代前期の第54代天皇。嵯峨(さが)天皇の皇子。
 【更 衣】 平安時代の宮廷女官の名称。天皇の衣服の替えをつかさどり、天皇の寝所にも侍した。

 【十二単衣】
宮廷女房装束の俗称。単衣の上に袿(うちき)を12着重ねて着たことによる。

 【嘉智子皇后】 嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子。仁明天皇の母。容姿美しく聡明な皇后として知られる。檀林(だんりん)皇后ともいう



     
年老いてからの小野小町についての確かな記録は何もありません。ただ若い時期の美しさが格別のものであっただけに、人生の盛衰を際立たせようとする意図からか、老後の姿をわざと悲惨に描いたものが多く作られています。その代表は謡曲・卒塔婆小町(そとばこまち)でしょう。

これは観阿弥(かんあみ)作の能(のう)のひとつで、高野山の僧が卒塔婆(そとば)に腰掛けている乞食の老女と問答して逆に仏法を説かれ、この老女が
小野小町のなれの果てであったというストーリーです。

その問答の中で、右のように
小野小町の最後の持ち物が紹介されます。粟と豆の干飯(ほしいい)、垢と脂に汚れた着物、そして白と黒のクワイ、これが最後の持ち物でした。

謡曲・卒塔婆小町は「玉造小町子壮衰書(たまつくりこまちしそうすいしょ)」という古典をもとにして作られたといわれています。また有名な中世の随筆・徒然草(つれづれぐさ)の作者・兼好法師(けんこうほうし)は、下巻の第百七十三段に

「小野小町が事、きはめてさだかならず。衰へたるさまは、玉造と言ふ文に見えたり」

と書いています。

では、玉造小町子壮衰書」とはいかなる書でしょうか。これは平安時代中期以降に制作された漢詩文1巻の書です。弘法大師・空海の作と伝えられてきましたが、空海は小野小町よりも前の時期の人。おそらく後の世に、弟子の流れの僧侶たちの誰かが作ったのでしょう。かなり長い漢詩文ですが、小町最後の持ち物を語る部分を見てみましょう。
漢 詩 文
読 み 下 し 文
芳年筆・卒塔婆小町
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 〔現代語訳〕

小町は首にひとつの包みを掛け、背中にもひとつの袋を背負っていた。旅の僧は老いた小町に尋ねた。

 
「袋には何を入れているのか」
 
小町
「垢と脂に汚れた着物です」


  「包みには何を入れているのか」
 小町「粟と豆を炊いて干したものです」

 
「笠には何を入れているのか」
 小町「田圃で採った黒いくわいですよ」

 
「篭には何を入れているのか」
 小町「野原で摘んだわらびぜんまいですよ」



「玉造小町子壮衰書」に書かれた女性が、宮廷に仕えていた小野小町その人であるかどうかは疑問が残ります。

この女性は東北地方に住んでいた別の美貌の女性、という説もあります。

いずれにしても、この漢詩文の作者は美女の容貌に事寄せて、人生の移ろいと有為転変(ういてんぺん)、諸行無常を説きたかったのでしょう。

ワラビゼンマイは落ちぶれた貴人の象徴的野菜として、ほかの古典文学にも多くの場面で持ち物として使われています。でも、クログワイを貴人零落の象徴としたものは、この「玉造小町子壮衰書」だけではないでしょうか。日本古典文学の中でもクログワイクワイを採り上げた作品はほとんど見当たりません。

萬葉集巻十にある有名な歌、

     君がため 山田の沢に えぐ摘むと 雪消の水に 裳の裾濡れぬ


の「えぐ」が
クログワイだといわれてきましたが、最近ではセリだという説の方が有力です。

  <ことば豆辞典> その三

 【観阿弥】 1333~1384。南北朝時代の能役者。能の観世流の祖。足利義満(あしかがよしみつ)に見出され、幽玄な芸風の謡曲を作った。
 【卒塔婆】 供養のために墓に立てる、上部を塔の形にした細長い板。梵字(ぼんじ)や戒名を書く。梵語 stupa の音写。
 【干 飯】 一度炊いてから乾燥した飯。昔の携帯用インスタント食糧。
湯か水を加えるとすぐに食べられる。


     
いま野菜として扱われるくわい3種
オオクログワイ クワイ スイタクワイ

謡曲・卒塔婆小町や玉造小町子壮衰書小野小町の最後の持ち物として登場するクログワイクワイとはどんな野菜でしょうか。

クワイは今でも正月の御節料理の材料として年末だけ店頭に姿を見せますからご存知でしょう。

でも、今は中国からの輸入品がほとんどで、国内産はごくわずかになっています。


クワイ
は奈良時代に中国から渡来したとされるオモダカ科の水生植物で、水田で栽培します。

大阪府吹田(すいた)市附近には小型の
スイタクワイ(吹田慈姑)があります。元は淀川の岸辺に自生していたもので、クワイの変種として分類されていますが、クワイから変化したのではなくオモダカの変化したもの、
水田雑草となったクログワイ 栽培中のクワイ
クログワイの
塊茎
市販のクワイ
(中国産)
オオクログワイ
の塊茎形成
オオクログワイ
の缶詰(中国産)
という説もあります。

現在吹田市では、吹田慈姑保存会が結成されて栽培が続けられています。吹田市のイメージキャラクターは、スイタクワイに顔を描き体や手足を付けた「すいたん」君です。

一方、クログワイはカヤツリグサ科に属し、草姿(そうし)がクワイとは全く違った植物です。水生植物であること、よく似た形の塊茎ができること、などの共通点があるので似た名前が付いています。

漢字では、
クワイを「慈姑」と書くのに対して、クログワイ玉造小町子壮衰書に記載の字のほかに「鳧茈」とも書きます。「黒慈姑」は俗称です。「烏芋」という字は、クログワイオオクログワイの両方に使うようです。
 
野菜のリストに入っている
オオクログワイは、クログワイとは近縁の別の種類で、現在日本ではほとんど栽培されておらず、中国から加工品を輸入しています。上海では地栗(ディリィ)、広東では馬蹄(マァタイ)と呼ばれています。

日本に古くから自生していた
クログワイは、今では水田雑草として厄介者扱いされていますが、この塊茎も小さいながら食べられます。大昔はこれを採り集めて食用にしていたのでしょう。

平安時代初期の書・本草和名(ほんぞうわみょう)に「
久呂久和為(くろくわい)」と記載されて、サトイモヤマノイモヒシなどと同じグループに入れられているのは、クワイオオクログワイではなく、クログワイだと思います。今は水田雑草ですが、当時は栽培もされていたのでしょう。クログワイの塊茎は黒茶色のものもありますが、白っぽいものも混じっています。ですから謡曲・卒塔婆小町にある「白黒の慈姑」というのも、実はすべてクログワイだったと考えてよいでしょう。

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有為転変は世の習い、とはいえ、小野小町ほどの類いまれなる美女でも、老残の身となればだれに顧みられることもなくなるとは、まことに哀れというほかはありません。今は野菜として扱われないクログワイでも、飢えた身ではおいしい食べ物だったのではないでしょうか。最後に小町の辞世の歌ともとれる一首を挙げましょう。
          はかなしや わが身の果てよ あさみどり 野辺にたなびく 霞と思へば
                                    (小野小町 新古今和歌集 第七百五十八歌)

このページの制作に当って、楊貴妃の画像を花橘さんから、クログワイの写真をよしゆき氏の松江の野草樹木の図鑑から、オオクログワイの写真を京都府立大学の寺林敏氏から、提供していただきました。各位のご厚志あつく御礼申し上げます。


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