野菜・昔ばなし

           
第十六話 心静めの
今、インターネットではブログ(blog)が大流行。ブログとはウェブログ(weblog)の略称。logとは日誌とか日記、記録の意味ですが、帳面に書く日記と違って、ブログはその内容が広く公開されて他人の眼に触れ、多くの人に読まれることになります。文章が正しくて内容のあるブログは、それがある個人の行動記録や考え方の記述であっても、読んで面白く参考になるものです。

ところで、日記は平安時代の昔から貴族の間で書かれていました。その中で文才のある女性の書いた日記は、すぐれた古典文学作品として現代まで
読み継がれています。たぶんこれらの才女たちは、のちの世の人に読まれるのを意識して、それぞれの日記を書いたのではないかと思います。このページのお話はそのなかの一こまです。
平安時代に女流貴人によって書かれ、現代まで伝わっている著名な日記を挙げてみましょう。

作 品 名 作 者 制 作 年
蜻蛉(かげろう)日記 藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)   974年ごろ
 和泉式部(いずみしきぶ)日記 和泉式部  1008年ごろ
 紫式部(むらさきしきぶ)日記 紫式部  1010年ごろ
更科(さらしな)日記  菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)  1060年ごろ
讃岐典侍(さぬきのすけ)日記 藤原長子(ふじわらのちょうし)  1108年ごろ

これらのうち、もっとも早く書かれた蜻蛉日記は上・中・下3巻からなっていて、文量も多く、文章もすぐれています。文中に和歌が多く詠まれているだけでなく、文末には歌集も付いていて、作者が並々ならぬ歌人だったことを示しています。

作者の
藤原道綱母は「小倉百人一首」では右大将道綱母(うだいしょうみちつなのはは)として出ていて、この歌は小倉百人一首の中でもよく知られた一首です。

道綱母は936年ごろに藤原氏の傍流・藤原倫寧(ふじわらのともやす)の娘として生まれました。名前はわかっていません。この時代、中流以下の貴族の女性は名前のわからないことが多いのです。

和泉式部紫式部道綱の異母弟・道長(みちなが)の娘でのちに一条天皇の中宮(ちゅうぐう)となった彰子(しょうし)に仕えた宮廷女房です。また、更科日記の作者・菅原孝標女道綱母の姪(めい)に当たります。

そして
、讃岐典侍日記の作者・
藤原長子は道綱の曾孫(そうそん・ひまご)ですから、道綱母からは玄孫(げんそん・やしゃご・孫の孫)になります。

道綱母の夫は、時の権力者でのちに摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)・太政大臣(だいじょうだいじん)となる藤原兼家(ふじわらのかねいえ)。兼家は野菜昔ばなし第九話・水葵から錦に登場した藤原師輔(ふじわらのもろすけ)の三男で、道綱母との間に次男の道綱を儲(もう)けました。道綱が成人して右近衛大将(うこんえのだいしょう)となったので、その母として呼ばれています。

夫の兼家には8人もの妻があったとのことですが、誰とも同居はせず、それぞれの家へ通っていました。次の世代に権力者となる藤原道隆(みちたか)・道兼(みちかね)・道長や冷泉(れいぜい)天皇女御(にょうご)となる
超子(ちょうし)らは別の妻・時姫(ときひめ)から生まれています。

平安時代中期の藤原氏系図
野菜昔ばなし第八話
の藤原氏系図参照
石山寺東大門
大門をクリックすると本堂になります
 <ことば豆辞典> その一

【藤原倫寧】
藤原長良(ながら)の子孫で陸奥守や伊勢守を歴任。道綱母の父。別の娘が菅原孝標の妻となる。
【中 宮】 皇后の別称。本来の意味は皇后の御所の名。
【彰 子】 藤原道長の長女。一条天皇の中宮。後一条天皇と後朱雀天皇の生母。院号は上東門院(じょうとうもんいん)。紫式部・和泉式部・伊勢大輔(いせのたゆう)らを従え、宮中に華麗な文芸サロンを形成した。

【摂 政】 天皇に代わって政務を行なう官職。
【関 白】 元の意味は関(あずか)り白(もう)すの意。平安時代以降、天皇を補佐して政務を執り行った最高位の職名。
【太政大臣】 昔の国政の最高機関である太政官制の最高位にある官職。定まった職務はなく、一種の名誉職。
【右近衛大将】 近衛府(このえふ)は皇居を警備し儀式や行幸に際して警護した武官の府。近衛府
は左右二つあって、大将はその長官。右大将は略称。

【冷泉天皇】 第六十三代の天皇。村上天皇の第二皇子。在位967年-969年。以後上皇となり、1011年に62歳で没。
【女 御】 中宮の次に位し、天皇の寝所に侍した高位の女官。のちに皇后となる場合が多い。
【時 姫】
藤原氏傍流で摂津守藤原仲正の娘。道綱母より先に兼家の妻となり、980年に死去。中流貴族の女性なのに名が残っているのは、権力者の生母であったからと思われる。

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藤原兼家

 道綱母は才色兼備の婦人でしたが、とても気性の激しい人でした。

小倉百人一首の歌は、夫が訪れて来ない一人寝の寂しさを嘆いて詠んだように思われがちですが、蜻蛉日記を読むと、実はそうではなく、しばらく来なかった兼家が訪れて来て「門を開けよ」と呼びかけたのに、わざと開門を遅らせてじらした末に詠んだものです。ですから、この歌の「あくるまは」以下の句は掛詞(かけことば)になっているのです。

蜻蛉日記は、道綱母が兼家と結婚した天暦八年(954年)から天延二年(974年)までの21年間の、彼女の暮らしと夫・兼家との間の出来事や感情の起伏を、かなり生々しくつづった作品です。

 才媛(さいえん)を自負しながら、ほかの女の家に通う兼家への恨みや頼み、多くの子を成して子供たちとともに本宅の東三条殿(ひがしさんじょうどの)に迎え入れられた時姫への嫉妬、ただひとりの子・道綱への思いなどが、多くの歌を各所に織りまぜながら書きつづられています。

 <ことば豆辞典> その二

【掛 詞】
同音異義を利用して一語に二つ以上の意味を持たせたもの。主に和歌で使われる。
【東三条殿】 平安時代前期に都の左京に藤原良房(よしふさ)によって建てられ、以後藤原氏の最高権力者の住居となった寝殿造りの建物群。天皇や上皇の住まいとしても使われた。

そのなかの中巻、天禄元年(970年)7月、兼家がまた新しい女のところへ通っているとのうわさを聞きます。彼女は渦巻く嫉妬心の炎を静めようと、身内にも行き先を告げず、少数の侍女や従者を連れて、ひそかに近江国(おおみのくに・今の滋賀県)の石山寺へ詣でて徹夜の勤行(ごんぎょう)をします。そのあとの文章に野菜が登場します。


【現代語訳】
 夜が明けてきたので外を眺めると、寺の東の方は風がほとんどなく、霧が立ちこめて、川の向こう岸は絵に描いたようなふうに見えた。川岸に放し飼いの馬の群れが、えさを探して歩く姿も遥かに見える。とても風情がある。人目をはばかって、この上なく大切に思う子供を京都に残してきたので、家を出てきたついでに、ここで死んでしまおうかと思うけれど、やはり子のことが気にかかって、恋しく切ない気持ちがこみ上げてくる。悲しさに涙が枯れるまで泣き尽くした。    (中略)
 こんなに悲しい心でいっぱいなので、食欲もない。寺の人が「裏の池のそばにしふきという草が生えていますよ」というので、「採って持って来て」というと摘んできた。器に盛り付けて、柚子を切って上に置いた味はとてもすばらしいものだった。



ドクダミ
道綱母の悲しみをひとまず静めたしふきという野菜は何だったのでしょうか。しふきは漢字ではと書きますが、常用漢字ではないので、パソコンによっては写らないかもしれません。この字はしぶきとも発音します。

ドクダミの古名ともギシギシの古名ともいわれます。けれど、ドクダミの葉は悪臭があってすぐには食べられません。よく乾燥して臭気がなくなったものは十薬(じゅうやく)と呼ばれて漢方薬に使われます。ですから、この道綱母が石山寺で食べたのはギシギシだったでしょう。

ギシギシはタデ科ギシギシ属の多年草で、北海道から九州までのやや湿った土地に生える野草です。大きくなると草丈1mほどになり、葉は長さ10~25cmくらいの長楕円形で葉のふちは波打っています。春に茎が伸び始め、夏に多数の花を着け結実します。

ギシギシを栽培した記録は見当たりませんが、アクを取ってゆでて食べていたようです。普通は春に茎が伸びる前の葉を食べますが、
道綱母が石山寺に行ったのは秋のようなので、ギシギシのどの部分の葉を食べたのでしょうか。

ギ シ ギ シ
茎が伸びる前の草姿 茎が伸びて開花 花が終わって結実 結実完了

ギシギシの名の由来は、実を付けたものを揺すったりしごいたりする時の音がぎしぎしと聞こえるからだそうです。漢名は羊蹄(ようてい)。日本では、地域によってシブクサとかシノハとも呼ばれます。この名は食べたときの渋味や酸味からきているのでしょう。この渋味や酸味は葉に含まれている蓚酸(しゅうさん)によるもので、生で食べず茹でて水にさらしアク抜きしてから食べる必要があります。

スイバ
ギシギシの根は褐色で太く、掘り取って乾燥したものは羊蹄根(ようていこん)といって、漢方薬として使われます。便秘や高血圧・動脈硬化に効くといわれます。また、なまの根のしぼり汁は皮膚病の治療に効果があるそうです。

ギシギシによく似た草にスイバがありますが、これはのちに日本に渡ってきたもので、道綱母の時代にはまだなかったものと思われます。スイバはヨーロッパではソレルと呼ばれて料理に使われています。

野菜の中で、日本に野生していた山野草が栽培されるようになったものは、野菜はどこから来たの? のページで日本原産野菜として挙げました。また、ナズナミズアオイのように、ある期間栽培されていたのに、その後栽培されなくなって野草に戻った種類もあります。

ギシギシ
のように、栽培された記録がなくもっぱら野生のままのものを採り集めて食べていた野草には、ノビルイタドリなどがあります。現代では、少しでも栽培している種類でなければ野菜として扱いませんが、元々は、野原に野生していて食べられる草を野菜と呼んだのです。
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道綱母が石山寺に参籠(さんろう)したのは、彼女が三十歳代半ばのころです。現代と違って、この時代の女性としては、すでに盛りを過ぎた年齢でした。

それでも
道綱母は、持ち前の激しい気性から気ままな行動に走っています。石山寺に参籠ののち、彼女はまた家出して鳴滝(なるたき・現在は京都市右京区の一部)の山寺に何日も籠(こ)もり、兼家に強引に連れ戻されることもありました。

道綱母は権力者の夫にも臆することなく逆らい、兼家もこの妻をいささか持て余していました。それでも兼家が彼女を最後まで離さなかったのは、
「本朝第一の美人三人の内」と謳われた道綱母の美貌だけでなく、彼女のすぐれた歌詠みの才能を頼みとすることが多かったからだと察せられます。

後年、孫の一条天皇が即位してその摂政に出世した兼家が、冷泉上皇(れいぜいじょうこう)との駒くらべ(今の競馬のような遊び)で負けて
瓜の形をした銀製の器を献上することになった時、この品に彫り込む歌を道綱母に頼みました。彼女はこれに応えて右上のような歌を届けています。歌の意味は次のようなことです。
  
生えかわりながら千年も経つがよい。山城の狛(こま)で並んで実っていた瓜の末なりよ
山城の狛とは地名で、現在の京都府木津川市や精華町のあたりを指します。。古くから朝鮮半島からの渡来人が住み、シロウリマクワウリの産地でした。道綱母はこれを掛詞に使って、瓜形の献上品にめでたさを添えたのです。

 <ことば豆辞典> その三

【石山寺】
滋賀県大津市にある寺院。真言宗別格本山。奈良時代に創建。本尊は如意輪観世音菩薩で、西国三十三所霊場のひとつ。珪灰石の岩盤の上にあるのでこの名がある。道綱母のほか、のちに和泉式部や菅原孝標女も参籠している。また紫式部はここで源氏物語を執筆したと伝えられる。
【勤 行】 仏前で読経し礼拝すること。
【参 籠】 寺院や神社に昼夜こもって祈願すること。

【一条天皇】 第六十六代の天皇。円融天皇の第一皇子。在位986年-1011年。退位してすぐに32歳で没。
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蜻蛉日記の記述は道綱母39歳の年末で終わっています。晩年の道綱母は、住居を移して道綱とともに暮らし、また、兼家と別の女との間に生まれた女子を引き取り、養女として育てました。夫の兼家が亡くなったその5年後の長徳元年(995年)、平安朝女流作家のさきがけとなったこの才女は、60歳で世を去りました。

このページの制作にあたって、石山寺の写真を天空仙人わーるどから、ご承認を得て転載させていただきました。また、ドクダミの写真をSuehiro氏のボタニックガーデンから、ギシギシの開花とスイバの写真を青木繁伸氏の植物園から、ギシギシの草姿と結実の写真を松江の野草樹木シダの花図鑑から、平安女性の画像はましうし堂から、それぞれ転載させていただきました。各位のご厚意にあつく御礼申し上げます
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